第二十三章 狼が虎に

テヘランのメーラバード空港を朝早く発ったイラン航空臨時便がミラノのマルペンサ空港に着陸したのは、午前11時半だった。
空港から、バスをチャーターした、乗客の家族一行はミラノ中央駅に向い、午後一時半のベルン行き列車に乗って午後三時半にブリークに着いた。
ブリークの駅を出ると、すぐ前にツェルマット行きの高山鉄道が待っていた。
出発まで三十分時間がある。
村木はジャミールとエリザベスの父アバスと一緒に、高山鉄道の駅を横切った角にあるカフェのテーブルに座ってエスプレッソを注文した。
「ツェルマットに着くのは六時ぐらいですね。そうすると今日は現場に行くのは無理なようです。タイラムさん、どうしますか?」
ジャミールがアバスに聞いた。
「ツェルマットの駅のすぐ傍からゴルナーグラート行きの高山鉄道が出ていて、六時ならまだ明るい。ゴルナーグラートにはホテルがありますから、ゴルナーグラートまで行きましょう。ホテルからモンテローザの氷河が一望出来ます」
村木がアバスに向って言った。
「どうしましょう?」
ジャミールはアバスに聞いたが、動揺して判断出来ないようだった。
「家族一行は、取りあえずツェルマットのホテルで泊まるようです。イラン航空からは、わたし達の宿舎を用意したと言ってきました」
「何て言うホテルですか?」
村木は聞いた。
「アルペンブリックというホテルだそうです」
村木は、よく知っているホテルだった。
「ちょっと電話をしてきます」
すぐ傍にあった公衆電話に走った村木は、ホテル・アルペンブリックに電話をした。
「ホテル・アルペンブリックです」
女性の声だった。
「マリアンかい。デュークだ」
丁寧な喋り方から、急に変わった声が帰って来た。
「まあ、デュークね。今どこにいるの?」
驚いた様子で、電話に出た女性は言った。
「今はブリークの町にいる。四時のツェルマット行きに乗る。そちらには六時頃に着く。ゴルナーグラートへの鉄道は、まだ行けるかな?」
「ちょっと待ってね、調べるわ」
村木は高校の時、洋画に凝って週に三回は学校の帰りに映画館に通っていたことがある。
パラマウント映画の最初に出てくる山に感動したのだ。それがマッターホルンだった。
仕事で中東の国に行っても、最後にはアテネかベイルートからミラノに行き、マッターホルンをよく見に行ったことがある。
マッターホルンを正面から見えて、夕方に太陽が沈みかけると、全体の景色が暗くなっていく中で、マッターホルンの正面の岸壁だけが太陽に照らされる姿を見て感激した。
それ以来、駅から距離はあるが、川の傍にあって、クラインマッターホルンへのロープウェーの駅に近いアルペンブリックを常宿にしていたのだ。
「六時二十分が最終のようだわ。イラン航空機爆破事件に関係あるの?」
心配そうに聞いてきたマリアンの言った言葉で、村木は、噂は本当だと確信した。
「もしそうなら、ゴルナーグラートに行った方がいいと思うわ。わたしがホテルを取ってあげましょうか?」
高田化学を辞めて以来、穏やかな生活をしていた村木の魔性に新たに火が点いた。
「よろしく頼むよ。三人分だ」
「会うのを楽しみにしてるわ」
マリアンはそう言って電話を切った。
「この仇は必ず取ってやる」
あれ以来鳴りを潜めていた狼が吠えたのだ。それも獅子のような雄叫びではなく、静かに冷静に敵を威圧する虎の囁きであった。