第二十章 さようなら!

その夜、村木はホテルに帰っても一睡もしなかった。
クセインの部屋に、何度も電話をしようと思い受話器をあげるのだが、結局また戻してしまう。
そして薄っすらと空の明かりが見えてきた。
バルコニーに出ると、カスピ海の穏やかな波が浜辺に縞模様を映し出し、かすかにバルコニーの右側から射してきた太陽の光できらきらしていた。
まるで砂漠の蜃気楼のようだった。
更に、太陽が昇ってくる手前に、昨夜、エリザベスを抱きしめた林からの木漏れ日が細い線となって砂浜に打ち上げる波と交錯していた。
昨夜、エリザベスがインターコンチネンタル・ホテルに村木を送った時、車の中から、彼女は言った。
「わたし、明日テヘランに行き、そのままロンドンに発ちます。いつか逢える日を。Hoda Afez!(さようなら!)」
明るい満足した表情で、車から差し伸べたエリザベスの手を、村木はしっかりと握った。
手にこもった力で、お互いの気持ちを確かめた。
クセインから部屋に電話が掛かってきた。
「村木。朝食取らずに、山を越えよう。憶えているだろう、断崖絶壁のところにあるレストランを。お前あそこで、朝飯にチェロキャバブを二人前食べたんだ、ヨーグルトと玉ねぎをかじりながら。あそこまで朝食は抜きだ」
チェックアウトするために、フロントに行って、
「村木です。チェックアウトして下さい」とフロントの女性に言うと、
「ミスタームラキですね。メッセージがあります」
と言って封筒を一枚、村木に渡して、「美しい女性でしたよ!」と親しげに微笑んだ。
村木は、エリザベスからだと直感した。
クセインの運転する車でホテルを発つと、クセインが言った。
「早く読まないと、山道に入ると読めなくなるよ。なんだって3000メートルの断崖を横に見ながら蛇行運転だから、すぐに車酔いしてしまうからな」
村木は、クセインの思いやりに感謝して頷いた。
封筒を開ける手が震えていた。

「村木さんへ。
 十八年ぶりのあなたとの再会は、思いがけないことから実現しました。
 あなたがテヘランに来ているということを、クセインさんの弟であるジャミールさんから、電話で聞いて、ロンドンから飛んで帰って来ました。
 ジャミールさんは、お父上の望まれた、わたしとの結婚を敢えて断ってくれました。わたしの想いを知っておられたからです。本当に、あのご家族には感謝しています。
 十八年前、わたしが十七歳で、ロンドンの学校から帰っていた時に、あなたは、わたしの前に現れたのです。
 あなたは、その時二十六才だと言っておられ、結婚して二年目だと言われました。
 その時、わたしは別に大した印象はありませんでした。
 ところが、マシャッドのモスクをご案内した時、あなたは無精ひげで、髪は伸び放題のお顔にも拘らず、ドームの青い光に照らされて輝いて見え、そして目が光っていたのを見た瞬間、わたしの中に、あなたの存在が大きくなっていくのを感じたのです。
 まだ十七才でしたし、こういう国に生まれたわたしは、まだ男女の恋愛経験はありませんでしたので、あなたの目の光は何だったのかよくわかりませんでした。
 しかし、その後、父からあなたの大きな心の傷のことを聞いたわたしは、もう結婚はしないと決心したのです。
 そして、ロンドンにそのまま住みついてしまいました。
 ロンドンでは、たまたまの縁で大英博物館に務めることが出来、仕事はとても満足しています。
 わたしは、もう三十五才になりました。
 だけど、あなたとの再会で、独りで生きてゆける自信がつきました。
 ロンドンで住んでいるのも、あなたの思い出を大事にしたい為に、ハノーバー・スクエアーの近くのアパートです。日本企業が多くて、日本語を勉強できるからです。昨夜の『燃える秋』も『フィーリング』も、ロンドンで一所懸命、日本語の歌詞を憶えたのです。
 昨夜、カジさんが歌っていた時、わたしも一緒に歌っていました。
 本当に逢えて良かったと思います。
 この世で再び逢えることがなくても、もう今のわたしには充分あなたの思い出を昨夜頂いたので、思い残すことはありません。
 本当に、ありがとう。さようなら!エリザベスより」

クセインは、手紙を読んでいる村木の目が光っているのを見て、言った。
「テヘラン発ロンドン行きの便は夜の八時半だよ。メーラバード空港には充分間に合うよ」
だが村木は顔を横に振っただけで黙っていた。