第十九章 抱擁

カジが「燃える秋」を歌い終わると、エリザベスがリクエストした。
「フィーリングをお願い出来るでしょうか」
カジはまたVサインを出して、頭を下げた。
偶然の一致か、村木にもこの歌は思い出のある曲だった。
二十年前に、シャーアッバスホテルでカジが歌っているのを初めて聴いて感激したのだ。
今では、スタンダードナンバーになっているが、当時は、日本には紹介されておらず、ヨーロッパとアメリカでヒットした曲だった。
カジは村木にもサインを送ってくれたが、何を言いたいのかわからなかった。
「Feeling・・・・・・
・ ・・・・・・・・・・・・」
カジは最初エリザベスに向かって、歌い出した。
そして途中から村木に向かって。
「ただ、一度だけの たわむれだと 知っていたわ
 もう 逢えないこと 知ってたけど 許したのよ
そうよ 愛はひとときの その場かぎりのまぼろしなの
Feeling woh woh feeling
泣かないわ
今 あなたと私が 美しければ それでいい
そうよ 愛は男と 女が傷つけあう ふれあいなの
今 あなたと私が 美しければ それでいい
Feeling woh woh feeling
泣かないわ」 
カジは、日本語で歌ってくれたのだ。
「すみません。せっかく、あなたのリクエストなのに日本語で歌って」
村木はエリザベスに頭を下げると、
「いいんです。日本語の詩の方が、わたし好きですから」
村木はギクッとした。
あの二十年前にイスファハンのホテルでカジのフィーリングを聞いた時、村木は心に大きな傷を持っていた。
そしてこの曲を初めて聴いた時、幻想の中で「燃える秋」の主人公の女性・亜紀を抱きしめていた。
二〇年の時を超えて、今、自分の横に、抱いてはいないが、愚かな亜紀と全く違う女性が座って一緒にこの歌を聴いているのが不思議な世界に思えた。
カジが歌い終わって、二人のところへやって来た。
「タイラムさんとグラブチさんは、別のところへ行くから、後はよろしくという、言付けでした」
カジは真剣な顔で村木とエリザベスに言った。
タイラム家はチャルースにもカスピ海に面した屋敷を持っていた。
「インターコンチにまでお送りしましょうか?」
エリザベスは村木の顔を下から眺めるようにして聞いた。
「夜のカスピ海をちょっと見たいですね」
エリザベスは微笑んで、エンジンをかけた。
防風林のようになって、カスピ海の側まで伸びた林を通って、車は海が一望できるところで停まった。
エリザベスはエンジンを切って、黙って、遠くを見つめていた。
村木も言葉が出ない。
突然、エリザベスが村木の胸の中に飛び込んで来た。
村木は彼女のブロンドの髪を撫でてやった。
そして顔を触ると、泪で濡れていた。
そっと顔を上げてやった村木は、エリザベスの唇に手をやさしく添えてやり、そして自分の唇を合わせた。
「これだけでいいんです。もうこれでロンドンに帰れます」
と言って、声も出さずに村木の胸の中で泣いていた。