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信長がもう十年長く生きていたら日本は被爆国にならなかった
信長がもう十年長く生きていたら黒人奴隷は生まれなかった
信長がもう十年長く生きていたら人種差別は生まれなかった
信長がもう十年長く生きていたら世界戦争は起こらなかった
信長がもう十年長く生きていたら今の日本にはならなかった
(あらすじ)
1582年に天下統一を果たした信長は、京都の本能寺で明智光秀の裏切りに遭って自害した。享年四十九才であった。
天下統一を果たしてから十年強の間に彼の為したことは、四百年の時間と空間を越えて今でも燦然と輝く。それも日本という島国だけではなく地球レベルの空間と四百年という時間を串ざしにした驚くべきものであった。
その信長が黒人奴隷の弥助に本能寺で救出され、その後十年、更に生き延び、世界に飛躍していく勇姿が最後に見せる大舞台は白人社会の本山だ。
そして最後に見せる自己完結の凄まじさで余分の十年の区切りをつけた。



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序章
第一章 の(1)本能寺の変 第五章 の(1)歓喜の秀吉
第一章 の(2)近代国家の誕生 第五章 の(2)有頂天の秀吉
  第五章 の(3)乱心の秀吉
第ニ章 の(1)恐るべき先見力  
第二章 の(2)信長の西征 第六章 の(1)リーダーの真骨頂
第二章 の(3)アーリア人 第六章 の(2)桶狭間の再現
第ニ章 の(4)インド・ペルシャ制覇 第六章 の(3)餌食・オスマントルコ
   
第三章 の(1)フロイスの日本史 第七章 の(1)ユーラシアの臍 コンスタンチノープル
第三章 の(2)16世紀のヨーロッパ 第七章 の(2)躁鬱の狭間での爆発
第三章 の(3)天皇制 復帰 第七章 の(3)黒人リーダー 弥助
第三章 の(4)経済力の強化  
  第八章 の(1)勧善懲悪
第四章 の(1)ヨーロッパ列強への怒り 第八章 の(2)無常・信長
第四章 の(2)カスピ海(カザールの海) おわりに
第四章 の(3)落とし穴


序章



織田信長は日本史上最も偉大な英雄と云えるだろう。
彼は1582年に京都の本能寺で家来の明智光秀に裏切りの奇襲を受け、自害した。
しかし、彼の死によって日本の近代化が約300年遅れたことは確かだ。
歴史に "もし"はないが、もしと、敢えて言うなら、彼が光秀の裏切りから逃れ、生き残れていれば、日本の近代化は三世紀以上早まり、欧州諸国よりも近代化は先に進められ、結果、その後の歴史が示すような、欧米列強による植民地帝国主義の世界的悲劇を食い止めることが信長によって出来たかもしれない。
これからのストーリーは世界的レベルの英雄、信長が生き延びたらという仮説をベースに、日本のみならず世界の歴史にどういう変化が起きたかという推論を展開してみる試みである。
読者の方々に悠久のロマンをよりリアルに味わっていただく為に、歴史上の人物をフィクションでありながらも実名を使わせてもらった。
過去300年以上の間に起きた帝国主義国による弱小国支配の歴史的悲劇を、信長だったら如何に避けることが出来、世界の平和の実現に影響を与え得たかを大胆に展開してゆきたい。
特にアフリカの奴隷制度からはじまった黒人差別問題は、今なお暗い影を残し続けている。
信長の生存中のやり方をよく理解すれば、この黒人問題も、それ以外の同じ人間でありながら生まれたときから差別を受ける多くの世界で起きている差別問題も、避け得た、あるいは解決し得たかも知れないヒントが多く見えてくるような気がしてならない。



第一章 の(1) 本能寺の変



1575年。 信長はライバルで最強の武田軍団を打ち破って京都に上洛してから10年の歳月が経っていた。
上洛の意味するところは、都の京都に住む天皇に取って替わって、天皇の名の下で京都を治めることであった。この意味は他の大名諸侯に対して、日本の実質的支配者は誰であるかを公に示す重大な出来事とされてきた。信長が日本を統治してきたこの10年間に旧態依然たる制度を果断に打ち破り、近代化の礎をかなり創ってきたことは、当時の世界が、日本も含めて中世の暗黒の世界から未だ抜け得ていない状態にあっただけに奇跡的なことと言わざるを得ない。
信長が、悪魔の化身と言われたのも、当時としてはあまりにもユニークな彼の発想にあって、同時代の武将には到底真似の出来ない政策を展開し、また実際実現させたところにある。彼の実行した中には、単に国を治める方策だけではなく、経済活動が人間社会に一番影響力があることを見抜き且つ実践しようとしたことが、その抜本的政策にも表われている。そういう意味で1582年という年は日本という国のみならず、世界の近代化への最初のチャレンジが成功するかどうかの分水嶺であった年と言っても過言ではない。
これからのストーリーは信長が光秀の奇襲から逃れ、安土に戻ったときから始まる。
光秀が本能寺を襲撃した1582年6月2日未明、信長は 森蘭丸から、光秀の奇襲だと聞いて覚悟した。
「是非もなし」と言って自害しようとするのを、弥助が止めに入った。
弥助は、フロイスから信長に献物として差し出された黒人奴隷だった。
何ゆえ 肌の黒い人間が奴隷にされたのかをフロイスから聞かされて信長は
フロイスに言った。
「お前の住むヨーロッパという国の人間の肌は白いと聞いたが、それは、お前のくれた地球儀を見れば北の端にある地域だと、必然 太陽の光の恵みを受ける時間が、地球の赤道地域よりも遥かに少なくなる。黒い肌の人間は太陽の光の恵みを多く受けているから、生理学的に肌が黒くなるのは当たり前ではないか。しからば、何故 太陽の光の恵みの少ない人間が恵みの多い人間より優れているのか、合点が行かぬ。反対ではないのか」
この理屈を聞いたフロイスは、
「何という素晴らしい知性を持った人物だろう。この地球儀から、太陽と地球の相関性を見抜くとは」と驚愕した。
この話を聞いていた弥助は、信長に心酔した。
「こんな人が、どうしてヨーロッパの国にいなかったんだろう。そうしたら自分たち黒人も奴隷にならなくてすんだはずだ。この人のためなら命をかける価値がある」と弥助は思った。
「何としても、信長様を助け出さなければ」弥助は主人であることも忘れて
信長の頭を後ろから殴った。気を失った信長を抱きかかえ、蘭丸に信忠様ほか家族の方々を連れてくるように指示した。そして女性陣の一団をつくり、その中に信長他一族をもぐり込ませ、正面突破を図った。
正面から悲鳴をあげて、逃げ出してきた一団を見て、光秀は家来達に追うことをさせないで、逃げるのを見逃した。
「光秀の心の優しいところだ。わしであれば 見逃さないのに」と女性の着物を被りながら逃げ去る信長は、馬上の光秀に手を合わせた。
先ず、信長はこの裏切りに対する報復手段を単に光秀のみならず全土レベルで展開した。というのは、この様な大胆な裏切りを光秀独りで出来る程、光秀に度量はないことを信長は知り抜いていた。その背後に必ず影の支配者がいる。そしてそれが、当時の正親町天皇と取り巻きの公家衆であるということも察していた。
天皇に永久追放を命じたのだ。
今までにも、上皇や天皇を島流しにした鎌倉幕府執権の北条義時や北条高時がいたが、天皇を永久追放させるようなことは、まさに前例のない、日本にとってはタブー的行動であった。他の世界ではこのようなことは常識なのだが、日本では一度もなかったことであった。
厳しい報復を実行完了したと同時に信長は中国を征服する計画に着手した。
秀吉は信長のNo.1の家来になっていたが、光秀による裏切りの奇襲の時、信長の命により毛利一族を攻めており、毛利の降伏を促している最中であった。
一方信長と同盟を組んでいた家康はちょうどその時、堺に数人の家来と逗留していた。光秀の攻撃が自分にも及ぶ危険性を感じ、とにかく堺から伊吹山中を抜けて伊勢に逃れようとした。そして7日目に何とか自身の領に入ることが出来た。そして、光秀討伐の旗を揚げようとしたとき早馬からの報告が入った。
信長は生き延びて、素早く光秀を逆襲し彼を捕らえ、体を八つ裂きにして鴨川の河原に晒した。秀吉は信長の傍で、この地獄絵を見た。
まさにこれが信長流であり、日本史上ここまでの厳罰をする武将は彼以外にはなかった。
だが、彼のやり方は、外国では当然のことであり、特に隣の国の中国では王朝が変るたびに、滅びゆく前王朝一族は子供・女にいたるまで皆殺しが常識であった。
目には目、歯には歯 流の信長のやり方はむしろ国際的であったという観点を見逃してはならない。
こういった現象はマイナスイメージが先にたつが、その反面日本的な信賞必罰の曖昧なやり方が国際社会から理解されない点は、日本国内では極悪非道と非難されても、国際的には、信長のやり方は理解され易かったといえる。
その点においても、信長のいる日本と、いない日本では、その進路がまったく正反対であり、そして国際社会からの評価も正反対であったであろうことは想像に難くない。
日本の近代化の緒についた明治の時代から、今日にいたるまでのおよそ150年のあいだに、信長のような政治家がいたであろうか。
近代日本政府の礎を創った大久保利通でさえも、所詮ヨーロッパ諸国の猿真似でしかなかった。
坂本竜馬でさえ、世界の流れを読みきる先見性およびその独創性においては
信長の比ではなかった。
特に信長の際だった特徴は、一説には男色の性癖があったといわれるほど、女性に関わるエピソードが聞こえてこない点にある。
当然 嫡男 信忠を筆頭に、次男 信雄、三男 信考、四男 信高 がいたし、徳川家康の長男 信康に嫁いだ 姫もいたぐらいだから 男色一筋ではない。
当時の領主は みんな 小姓を男色の相手にしているのが常識の時代である。
その点では 信長が 性的アブノーマルだったとは考えられない。
それなのに、秀吉や家康のように 女性のエピソードがまったくと言っていいほど 伝えられていない。
この点に注目することは 信長の真実の姿を浮き彫りにする重要な要素だと言えるだろう。
その中で、信長の妹である お市の方とその三人の姫が その後の歴史の表舞台で大きな影響力を持つにいたったことも、歴史的にあまり注目されていないのは、何かその裏に政治的意図が隠されているように思えてならない。



第一章 の(2) 近代国家の誕生



この事件から1年後、同じく信長によって滅ぼされた石山本願寺の跡地に新しい町と城をつくった。これが今の大阪である。彼は以前から将来世界に羽ばたく為にはこの地が重要な拠点になると考えていた。その世界に羽ばたく為に必要な情報源として、ポルトガルから遥々やって来た宣教師のルイス・フロイスを信長は非常に大事にもてなした。
ルイス・フロイスの「日本史」でもヨーロッパ諸国のことや、進んだ科学を理解出来た日本人は信長唯一人だったとその中で書いている。特に、信長の知的レベルの高さを象徴するのが、当時ヨーロッパでも地球は丸いなどと思っていた者は殆んど居なかったが、信長は理に適っていると即座に理解したことである。信長のこの先見性と知性は十六世紀の時代のみならず、二十一世紀においても群を抜いたものであり、現代でも最も適した指導者と言えよう。
ルイス・フロイスは安土城の天守閣で信長の引見を受けていた。信長はフロイスにヨーロッパの、特に軍事面でのランクの高い国のことを聞きたがった。
フロイスの出身のポルトガルは1500年代、航海術の先進性のお陰で他の国をリードしていた。だから彼も遥か遠い日本まで来ることが出来たのだ。当時は航海術の優劣が他の国を圧倒する最も大事な要素だった。英国が1600年代、世界をリード出来、大英帝国の礎を造れたのは産業革命による画期的な技術によるハイテクの船を造ることが出来たからだ。
しかし、1500年代は勇気が先陣をきれる国の一番強い要素だった。ポルトガルのあとスペインが、スペインのあとオランダが、オランダのあとイギリスがリーダー国として継いでいった。ドイツ・オーストリア帝国がこれらの国の列強植民地帝国主義で後塵を拝した結果二十世紀はじめの第一次世界大戦を起こし、次いで第二次世界大戦と引き続き二十世紀の悲劇を生んだ。
1500年代信長の日本は武器、特に鉄砲の大量生産の設備においても、鉄製の大型の造船技術も世界をリードしていた。しかも、ハード生産のみならず、情報というソフトの創造力においても明らかに、世界をリードしていた。彼の世の中の変化を読み取る先見性は500年を超えた現代でも通用する。ルイス・フロイスは情報の提供者として信長のヨーロッパ戦略に大きな役割を果たした。
正親町天皇の永久追放のあと、本来なら天皇家から次の天皇が選ばれるのだが、信長はその慣習を許さなかった。彼は一千年以上続いた天皇制を今後継続しないことを、侍階級から農民階級までの全民衆に申し渡した。世界史上、信長によるはじめての共和制国家の誕生である。
彼は初代の大統領に自分自身を指名した。しかし信長以降は彼の一族から大統領になることはなかった。信長の後を、秀吉が各藩の領主の選挙によって選ばれ、秀吉の後家康も同じように大統領に選ばれた。信長が大統領になったのは50才のときであった。秀吉は信長より3才若く、家康は秀吉より7才若かった。かくして、栄光の日本共和国はこの三代の大統領によりヨーロッパに先立って成立した。しかし、信長なくしてこの画期的変革は起こらなかったであろう。次に信長は日本を統一したように海外に向けての準備をはじめた。
まず、彼の一番重要な戦略は敵の情報を出来るだけ多く集めることだった。彼にとっては、兵士が如何に勇敢に戦うかより、如何に価値ある情報が情報隊によって集められるかを重視した。
彼のセンセーショナルなデビューだった今川義元との桶狭間の合戦のゲリラ戦法で敵の大将、義元の首を取って打ち破ったのも価値ある情報のお陰であった。その勝利の合戦あとの、論功行賞でも義元の首を取った服部小平太と毛利新介よりも、義元の価値ある情報を伝えた梁田正綱に第一等の賞を与えた点でも、信長が如何に情報を大事にしているかが窺える。
二十一世紀は先進情報技術による社会になると言われている。400年以上も前にそのことに気がついていた人物がいたことは、正に奇跡だというしかないであろう。
ポルトガルやスペインといった当時のヨーロッパの先進国でも、未だ貴族や宗教の聖職者達と組んで領土を占領していた立憲君主の支配する体制であった。
農民は土地を持つことは出来なかった。日本でも信長以前は同じ制度で荘園制度と言われていた。信長はこの制度を廃止して農民に土地を与えた。信長はまた楽市楽座という自由市場をつくり、そこでは売る者も買う者も自由に出来る制度であった。
彼はまた、今まで神社・仏閣がつくった関所を全廃し人の往来を自由闊達にもした。400年以上も前に現代の日本でも出来ていない近代社会システムを彼はすでに実現していた。信長の死はそういう点において日本という国の年齢を400年も失わせた。この損失は日本だけにはとどまらない。その間世界で帝国主義国によって受けた被支配国のダメージは大きい。アジアや南アメリカは言うまでもなく、特に今尚、世界の大きな課題である黒人差別を産んだ奴隷制度の犠牲は極めて大きい。信長は日本のみならず世界の歴史を変えるのにこれから挑戦する。
では1582年に再び戻ろう。



第二章 の(1) 恐るべき先見力



淀川の傍に新しい城の工事を完了すると、信長はすぐに安土から移った。その城の名前も大坂城と名付けた。大阪という名前はこの時から始まった。
一方秀吉は長浜から安土に移った。これは信長が命じたもので信長の後継者は秀吉だと表明したものだ。しかし信長は飽くまで各諸藩の藩主の投票によることが基本であることは変えなかった。信長には四人の男子がいたが、信長は秀吉を第一候補にした。これが共和制だということを十分認識していた。より能力のある者がリーダーになる。より大きいチャンスがある。そして彼は画期的な新しい組織と昇進システムをあみだした。従来のピラミッド型組織からスクゥエアー型組織に変えた。スクゥエアー組織というのは仕事の機能を大きく4つに分けてトップはその中心に位置する組織だ。
リーダーの能力が問われる組織だ。リーダーは常に4つの仕事がうまく機能しているかを見分ける能力がいる。ある意味で万能でないと務まらない。そのためには常に人一倍努力して中心にいることが出来るよう自己研鑚しておかなければならない。ピラミッド型組織ではトップは下層レベルまで目が届かない。そしてミドルレベルはいつもトップの目を窺って心地よい報告しかしないからトップに事実が報告されない。このことを信長の合理的な考えが見抜いていた。勿論情報システムは信長にとって重要な道具であるが、もっと重要なのはその情報が中心にいるトップに集中するようになっていないと意味がない。だから彼はスクゥエアー型組織を作り出した。
従来のピラミッド型組織では、トップに藩主がいる。
その下に家老クラスがいて、そして奉行がいて、その傘下に平の家臣がいるピラミッド型だ。
しかしスクゥエアー型では家老も奉行も平の家臣もない。あるのは軍事・財政・内務・目付の4つの機能だけだ。
すべての機能のトップは藩主であり、すべての決断は藩主がやる。信長はそのため若い頃から、現場を見て、体感することを怠らなかった。
農民の子供とも一緒に遊びまわっていたのは、いざ戦となると農民が兵士になる。その兵士の心情を掴まずして武将の役割は果たせないと思ったからだ。
農民の心情が解ると、戦う兵士としては全く適していないことが解り、そこから、日本史上はじめての傭兵制度を採り入れたのだ。
やはり、現場を知っていることが、如何に大事であるかを物語っている。
そして領主になったとき、彼はすでに、新しい組織の具体案を持っていた。
だが、他の戦国大名は旧態依然のやり方を守っていた。武田信玄しかり、上杉謙信しかり、徳川家康しかり、いわんや今川義元も。
信長が織田家の領主になった時点で天下取りの勝負は決していたのだ。
新しい組織の体制を構築していたこの一年間、信長は朝鮮を経由して明を攻める計画を立てていた。彼は既に明の軍事力のデータを充分集めていた。兵卒の数で明は巨大だ。しかし信長は敵の兵卒が味方の何倍、いや何十倍もの場合でも闘い方を知り抜いていた。現代の情報戦を既にやっており、小よく大を制するには情報戦、経済力そして技術力が物を言うことを認識していたのは世界で信長以外いなかったであろう。
信長は自軍の鉄砲の保有数が明を上回っていることを確信してから、いよいよ明に進軍する決定をした。秀吉は総司令官に選ばれた、彼は情報戦では天才的能力を発揮するからだ。その能力を信長から買われてあっという間にNo2の位置についた。1584年3万丁の鉄砲を抱えた15万の兵卒が500の鉄製の船に乗って進軍を開始した。
まず秀吉は出雲から出帆し日本海を超えて南朝鮮に向かった。南朝鮮に信長が陣取る指令塔をつくるためだ。そしてそこから前線の秀吉に指令を出す為だ。信長があみ出したのは精密にコード化した狼煙システムを10kmおきに設置した。従来の情報伝達では、100km先の前線の状況を把握するには早馬の乗り継ぎでも半日はかかる。飛脚なら2日かかる。それを彼の狼煙システムでは1時間もかからないで最新情報が届く。彼があみ出した新式狼煙システムは非常に細かいことまで取り決めをして、しかもマニュアル化してあった。煙の形と色によって意味を変え、しかも24時間体制を敷くため100種類を超える花火をも用意した。その狼煙システムを使って信長は秀吉にありとあらゆる戦略、戦術を指示し、秀吉はそれを着実に実行した。
信長は南朝鮮を1日で陥落させ、すぐに指令塔の城を造った。その時、秀吉は既に朝鮮全土を1週間で陥し、信長の次の命令を待っていた。信長は秀吉に明に進軍の命令を出す前に、明に手紙を出して降伏を促した。これはまさに信長の情報操作で高度な手法だ。明の皇帝はこの罠にまんまと引っ掛かった。明の皇帝はこの挑発の手紙に激怒し、自ら先頭をきって出陣して、信長の用意した数知れない仕掛けの戦場に飛び出してきた。明の皇帝の首を取るのに2日もかからなかった。明王朝は1368年から1421年まで南京を首都にしていたが、1421年に燕京(今の北京)に首都を移した大帝国だった。その明を信長はたった2日で滅ぼした、1584年に。
信長は明も含めていままでの中国の歴代王朝の支配スタイルが今川家のものとよく似ていることを見抜いていた。ひとたび、皇帝が憤死すると何百万の兵士であってもまったく力が発揮できなかった。信長に滅ぼされた明の民衆はその後に起こるであろう皆殺しに脅えた。それが中国の王朝が替わるときの慣習だった。しかし、信長は明の首都の燕京に進軍したとき全兵卒に厳しい命令を出していた。明の民衆を決して殺戮、略奪、強姦をしてはならんと。これが信長のやり方だ。明の民衆はそういう信長の侵略を歓迎した。
甲斐の武田が信長によって滅ぼされたとき、甲斐の民は決して信玄といえども、武田家を良くは思っていなかったことが窺われる。
やはり農民は、信長が思っていた通り、戦を憎んでいた。
農繁期を過ぎると、戦に駆り立てられる。
信長は 傭兵だから 戦に農民は必要ない。これほど農民にとって有難いことはない。
甲斐の民は、信長が甲斐を治めに、いつやってくるのかと待ちわびた。
民にとって、歓迎できる武士は信長だけであったろう。
秀吉、家康といっても、所詮我が身、我が一族のことしか考えていない。
家康が、戦乱の世を終焉させることを第一義としたと歴史では伝えられているが、果たしてその意図が 民のことを考えてのことであったのか、これはもう少し検証する必要があるが、その後の徳川300年を遡ると、やはり我が一族の安泰しか考えていなかったと思わざるを得ない。
やはり、信長の死は 民にとっても大きな損失であったと断言できる。



第二章 の(2) 信長の西征



秀吉は15万の兵士を引き連れて燕京に入った。
兵士は皇帝宮に通じる道路を一糸乱れぬ、まるで人形の行進のように進んだ。秀吉が燕京に着いた2日後に信長は数人の家来を引き連れて燕京に入った。その姿はどこかで戦があったとは到底思えないいでたちで馬に乗っていた。明の民衆は信長の威厳のある姿を見て驚いた。最初、明の民衆は秀吉がリーダーと思ったほど秀吉も威風堂々としていたが、信長の前にいる秀吉はまるで飼い犬と主人の関係のような振る舞いに驚くとともに、信長を神のように感じていた。
しかし、彼等の信長を神のように感じることは、その後の信長の次から次へと打ち出す新鮮な政策によってますます増幅していった。彼の政策は上下の関係なくすべての民衆に適応される規範だった。まず都を造り直し、古い宮殿を取り壊し、その跡に民衆が選挙で決めた代表が政治を行う建物を建てた。信長は人民による、人民の為の、人民の政治を行う共和制の新しい国家の初代監視役として秀吉を指名した。秀吉に2年間だけその任に留まり、その後は彼等独自で政治を行えるようにし、即座に帰国するように命じた。信長の指示に応えて秀吉は立派にその仕事をやり遂げた。
信長が燕京に滞在したのは、たった3ヶ月だった。
そこで彼が知ったことは中華思想であり、世界の中心は中国だという考え方だ。フロイスからもらった地球儀を見て、地球が丸いことを理解した信長からみれば地球の表面に生きているちっぽけな人間社会など取るに足らない存在であって、自国が中心だという考えなど論外であった。
もう既に、信長の脳裏には中国などなく、次の計画のことで一杯だった。
信長は大坂に戻ると、すぐにフロイスを大坂城に呼んだ。フロイスはキリスト教の布教活動には京都が最適と思って信長の許しを得て京都に住んでいた。京都には多くの仏教の宗派があって、その各宗派の寺院が無数にあったから宗教に関心のある民衆が大勢いた。
信長は彼に、2年以内にインドからペルシャに向かって出陣することをほのめかした。また10年計画でアジアからヨーロッパまでを統一する計画であることも話した。
ローマ帝国は紀元前一世紀から紀元後十五世紀(西ローマ帝国は五世紀、東ローマ帝国は十五世紀)まで約千六百年以上続いた、世界史上最も長命の帝国であった。信長はローマ帝国が崩壊した原因を充分認識していた。ローマ帝国が一番栄えた時期は、前皇帝が次の皇帝を世襲でなく、適任者を指名し続けた五賢帝の時で、結局はトップが、有能か無能かが国の命運すら左右する。ローマ帝国崩壊後のヨーロッパはいろいろな国が離合集散を繰り返し、結局、絶対的な帝国はその後生まれなかった。そのことを充分承知していた信長だけに、今こそ千載一遇のチャンスだと確信していた。
フロイスは西欧諸国で今はポルトガルやスペインが他の国をリードしているが、遅かれ早かれ没落していくだろうと、そしてイタリアのフィレンツェから起こったルネッサンスによってヨーロッパは変わって行き、いずれ産業革命による飛躍的な技術革新を実現したイギリスがヨーロッパの覇者になるだろうと信長に説明した。(作者注記:史実では産業革命は十八世紀に起こるが、本小説はフィクションにつき、信長と同時代の十六世紀前半に生じたものとし、以下の蒸気機関関係の発明も十六世紀初めと設定した)。信長は特に今ヨーロッパで一番進んだ技術はどんなものかに関心を示した。フロイスはイギリスのスチーブンソンという技術者が発明した蒸気機関車というものが一番革命的なものだと言ったら、信長は水が沸騰したときに生じる蒸気の力のメカニズムをすぐ理解した。いまさらながら、この信長の持っている知性の高さに舌を巻いた。そして信長はすぐさま蒸気で動かす船を建造しようとした。フロイスは蒸気船もすでにヨーロッパでは造られていると言ったが、信長の考えているものは、遥かにヨーロッパのものに比べて斬新なものだった。信長の日本とイギリスを中心とした西欧諸国
とのこれから起こる最終戦に、この信長の船が決定的な要因になるとは、フロイスもその時考えもつかなかった。 1585年、信長はインド出陣の完璧な計画をつくった。海を渡ってインド洋からカルカッタに上陸するつもりだ。しかもその兵卒はすべて中国で調達して乗船させるというユニークなものだ。日本を出発する船は1000隻でそこには大砲とハイテクの武器だけだ。人間は船を操縦するクルーだけだ。信長は秀吉に50万人の兵卒を中国で調達し上海で乗船できるよう手配する命令を出した。日本を出発する船には山ほどの黄金を積みこんだ。上海でその黄金を降ろし中国の民衆に手渡すためだ。信長はインド・ペルシャとの戦争に必要な物資と兵卒を中国から買ったのだ。ここにも信長の経済重視の思想が出ている。当時日本は世界でも有数の黄金の産地だった。西欧では、日本のことを"黄金の国 ジパング"と呼んでいたのも黄金が大量に産出することを知っていたからだ。
フロイスは信長の戦略を聞いてうなった。まさに画期的かつ実践的であった。1584年から信長は出雲で鉄製の船を造らせた。出雲という国は古代の出雲王国のとき以来、鉄の大生産地で日本の国造りに出雲が登場するのもこの鉄による鉄製武器が大きな力を持っていたからだ。そしてその鉄を使って大量の鉄砲を堺で造らせた。堺は当時世界最大の鉄砲生産地だった。今でも鉄砲町という名前が大和川のそばにある。
フロイスは自分の書いた「日本史」で信長のこの天才的な先見性と勇気を絶賛している。しかも信長はある意味で悟った運命主義者だったとも書いている。戦いに臨む前必ず、彼は敦盛の「人間五十年、下天の内をくらぶれば夢、幻のごとくなり、ひとたび生を得て、滅せぬもののあるべきや」の詩を歌って踊ったという。彼はその時52才だった。今ある生は余分なものだと達観していたとフロイスはその本で語っている。
信長のこの運命主義的な面は、リーダーシップの本質と表裏一体として符号する。
戦国時代の武将、特にトップはいつも死と直面しているのが宿命である。
猿山のボス猿と同じだ。
敵が襲ってきたら、率先垂範 まず自ら敵の前に立ち塞がらなければならない。
それでこそ、みんな ボスとして認める。
秀吉の人たらし術など、現代の企業のリーダーに悪い参考になっても、良い参考にはならない。ましてや 三方ヶ原の合戦で、あまりの武田軍の強さに恐れ、
馬上で糞を出しながら逃げ落ちた家康など論外である。
家康に 桶狭間の戦いにおける信長の知略と勇気が、小指程度でもあったら、ぶざまに今川の人質などで収まっていたはずがない。
戦国の三大武将として、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康を挙げられるが、信長にとって比肩されるなど論外であろう。



第二章 の(3) アーリア人



信長は次の相手をインド・ペルシャと決めていた。
インド・ペルシャは国の歴史こそ違うが、もともと同じアーリア系民族で近代ヨーロッパ諸国のルーツである。
人種のルーツが同じだということは、文化が同じに必然的になる。
そこを信長は見抜いて、やるならインド・ペルシャを一気に侵攻することを考えていた。
秀吉はその年の11月までに50万人の兵卒を上海に集結できると、信長に報告してきた。信長は12月から翌年の1月までにはインドに上陸しなければならないと考えていた。翌年の3月までにはインドを征服完了しておかなければならない。それはインドという国の気候を考えると当然だった。4月に入ると熱帯モンスーンによる暑さと雨季に入る。そうなれば数倍の苦労がいることを信長は認識していたからだ。とにかく彼の計画は緻密かつ正確で実戦的だ。シルクロードが3本あって一つはインド洋上だということ、あとのふたつは陸地でインドの中央部と北部にあることも調べてあった。この陸地のシルクロードが中国に通じている。そこからは秀吉が当時のインドの首都であるアグラに進軍する。陸と海からの挟み討ちだ。
信長はこの軍隊のことをチェーン部隊と名付けた。戦士はいつも死と直面している。ものすごい緊張とプレッシャーが心身両面にある。信長は戦士を決して続けて戦わせることはしなかった。一度戦いをすると、必ず全兵士を入れ替える。そして少なくとも半年から1年は休息を取らせる。戦いに臨む兵士は常に体力・気力が充実した状態で戦わせた。
それと彼の知性の卓越した点は、戦う兵士の敵に対する憎しみを刺激する心理作戦にある。中国とインドは常に国境線で摩擦をおこしていて、お互い憎しみあっていた。この心理を信長は見事に読んでいた。それぞれの兵士の精神面をうまく使って、決して無駄な戦だと思う兵士を使って、味方のダメージを受けるようなことはさせなかった。しかし、信長の掟だけはいかなる兵士といえども絶対であった。これが信長のやり方で、侵略された国の民は信長を歓迎した。
1585年9月3日信長は1000隻の戦艦を引き連れて上海に向かって大坂を発った。上海に9月末までに着くためだ。彼はインドへの侵攻の戦略を完全なものにするため、秀吉と打ち合わせのために早めに日本を出た。
秀吉が中国の監視官になってはや1年半が経っていた。その間に燕京の中国の議会で選出された新しい中国人の統治者を育てていた。その統治者の名前は徐偉と言う42才の能吏で山東省の済南出身だった。済南はあの有名な泰山のあるところだ。徐偉は1年半で日本語を完全に修得した。そして今回の信長と秀吉の会議に出席を許された。信長は徐偉に中国の統治者としての王位を与えた。そしてそれ以後秀吉は中国の統治について一言も口出しをしなくなった。信長の命令だったのだ。徐偉は信長のこの扱いに感動し、以後の忠誠を誓った。そして今回のインドへの出陣の司令官を自ら買って出た。
信長は徐偉を50万人の兵士を擁する海軍総司令官に命じた。信長はまた秀吉を陸軍の総司令官に指名した。会議の結果、徐偉は1000隻の軍艦と50万人の兵士を引き連れインド洋から侵攻し、秀吉は日本の5万人の兵士を引き連れ首都のアグラに直接攻め入ることになった。これがまさに信長の高等戦術だ。信長は侵攻が成功するまで上海で待機する。秀吉は5万の兵を敵に見せつけるだけで、決して攻めない。その前に徐偉がカルカッタを1日で攻め陥し、カルカッタ周辺50kmを完全閉鎖し、情報をアグラに一滴も漏らさぬ戦略だ。カルカッタの人口はその時代でも1000万人を超えていた。1日5万人の兵士を普段の格好にさせて武器を馬や牛に隠して乗せ、毎日カルカッタからアグラに向かわせても目立たないことを計算づくだ。カルカッタからアグラまで20日かかる。毎日5万の兵士を送るから50万なら10日かかる。総数30日。アグラに50万の兵士と武器を送るのにかかることを計算して徐偉の率いる海軍を秀吉の軍より30日早く出発させた。これが信長の新しい心理作戦だ。
現代の日本人に欠けているのが 危機管理だといわれている。
リスク・マネージメントである。
信長の優れた一面が、このリスク・マネージメントにあらわれている。
欧米諸国が近代から現代にいたるまで、世界をリードしてこれたのは、このリスク・マネージメントを重要視したからだ。
ハードウェアーの生産技術において日本は世界一だ。
それなのに、宇宙開発では米国がはるか先を行っている。
これこそ、リスク・マネージメントの違いである。
航空機の製造においても日本は欧米より遅れている。
これもリスク・マネージメントの欠落が原因である。
ジャンボ・ジェット機は、飛行中トラブルが生じたら7段階までの代替措置装備が施されている。
この部分がトラブルを生じたら、この部分が取って替わる役をする…・が7段階ある。7段階あるとトラブルが大事故にいたる確立が限りなく0に近づく。
宇宙船ディスカバリーの場合、何十段階もの代替装備があるから完璧に近い成功率を誇る。この考え方は天候まかせの農耕民族のメンタリティーにはない。
やはり狩猟型民族的発想である。
信長は、あきらかにこの素養を持っていた。
「大胆かつ緻密」「天使のようで大胆に、悪魔のようで慎重に」が信長の真骨頂である。
かくして歴史の新しい幕は切って下ろされた。



第二章 の(4) インド・ペルシャ 制覇



1585年11月2日秀吉軍はインド国境に侵攻を開始した。アグラまで国境から7日かかるところだ。一方、徐偉軍は秀吉軍がインド国境に到着する前に、既にカルカッタを攻め陥していた。そして秀吉からの狼煙の指令を待っていた。秀吉軍とカルカッタとの距離は1000kmぐらいあったが、ここでも信長の編み出した狼煙による情報システムが力を発揮した。秀吉軍と徐偉軍との情報は10時間で伝達された。この時代において1000kmという距離は1ヶ月単位の時間感覚だ。それを1日単位にまで圧縮出来る能力が信長にはあった。ミサイルという武器を持つ者と、刀・槍を武器として持つ者の勝負と一緒だ。まったく勝負は最初から決まっている。秀吉がアグラを攻撃するふりをする2日後には徐偉軍はアグラのすぐ傍まで来ていることが最初から決められていた。アグラが陥落する日は11月30日と信長は決めていた。
秀吉の5万の軍隊を見た敵方は自信たっぷりに20万の兵を率いて打って出た。信長の思う壷だ。まさかそのうしろに50万の近代兵器を持った軍隊が隠れているとは露とも知らずに。アグラ城は1565年ムガール帝国第三代アクバル大帝によって築かれた堅固な要塞になっていた。だから例え秀吉と徐偉軍が束になってかかって、兵の数で圧倒できてもアグラ城を攻め陥せたかどうか分からない。信長は勝つ確信のない博打はやらない。秀吉も徐偉も信長に操られた人形のように動くだけだ。ふたりとも信長の凄みに今更ながら畏れ戦慄いた。
ムガール帝国第三代アクバル大帝軍は秀吉軍に突入した。しかし秀吉軍は全く戦闘意志を示さなかった。ただ 散らばって逃げ回るだけだった。アクバル軍は一体どうなっているのか理由が分からなかった。秀吉軍は散らばるときに思い切り砂塵をばらまいて敵の視界を塞ごうとした。砂塵が消え去るまで10分もかかった。砂塵が消え去ったあと忽然とアクバル軍の前に徐偉の軍隊が、回り全部を取り囲む壁のような姿を現した。徐偉軍はインドの20万の軍隊を取り囲み驚くべき数の鉄砲、大砲を撃ちまくった。彼等を殲滅するのに1時間もかからなかった。秀吉軍、徐軍側はまったくひとりもダメージを受けなかった。
信長の完全勝利だった。この情報はすぐにヨーロッパ全土に伝わり、特にぺルシャのサファビ王朝シャー・アッバス(アッバス2世)は首都をガズビンからイスファハンに遷都している真っ最中で、信長の魔の手が間近に迫っている恐怖でいっぱいだった。信長は秀吉をシャー・アッバスと交渉させるためペルシャの首都イスファハンに派遣した。シャー・アッバスは戦わずして降伏した。信長は国王の命を救い、彼等の自治権を認めた。しかし秀吉に1年以内に有能な監視者を育てるよう指示した。
一方信長は徐偉にアグラに留まるよう指示した。秀吉を中国に留めたのと同じやり方だ。インドの監視者の名前はアルン・ダトワニと言って、彼は農奴のスードラとそのまだ下の卑賎民の出身代表者だ。インドのカースト制度だ。しかし、今や一番身分の高いバラモンも一番低い農奴や卑賎民も、国を治める力においては同等になった。何千年も続いたカースト制度は信長によって破壊された。10億を超えるインド国民の殆どは信長のこの快挙を歓迎した。
信長はアグラに1週間滞在するだけで、船で日本に帰った。彼には日本でするべきことが山ほどあった。大坂に着くとフロイスが大坂の港まで迎えに来ていた。信長はフロイスを見て大いに喜んだ。



第三章 の(1) フロイスの 日本史



信長はフロイスと再会を非常に楽しみにしていた。中国の明、インドのムガール、ペルシャのサファビをほとんど自軍はダメージを受けずに攻め陥すことが出来たのも、フロイスから得た情報が正確だったからだ。だがペルシャを破った時点で信長は秀吉や徐偉の主張を断固しりぞけて第1回目の侵攻を終了した。それは信長がフロイスから得た情報を重視したからだ。信長にとっての最大の敵はオスマントルコ帝国だった。
オスマントルコ帝国は1291年にオスマン一世によって築きあげられた最大の帝国だ。ローマ帝国から分裂した後、西ローマ帝国はすぐに滅びたが、ビザンチンを首都にする東ローマ帝国は1453年まで続いた。その東ローマ帝国を1453年に破滅させたのがオスマントルコのメフメト二世だ。
西は北アフリカのエジプトからアルジェリアまでと、アラビア半島内陸砂漠以外の中東すべて、ヨーロッパはバルカン半島からハンガリーまで、東はイラクまで支配した大帝国だ。ハンガリーまで行けなかったのは、1566年のスレイマン一世の死後、勢いは下降線を辿っていたからだ。その理由は溯ること51年前、バヤジット一世の時勢の時ヨーロッパに目を向けている隙に、ジンギスカンの末裔であるチムールが、サマルカンドを首都に1369年にチムール帝国を築きペルシャ、バビロニアを奪い取り、その勢いでオスマンとの戦いで勝利を得たことがあった。1402の出来事だ。チムールは、勇猛果敢さと明敏さ、そして一度口にした命令は、決して取り消すことのない恐るべき指導者だった。だがその後チムールは明への侵攻前に病死し、オスマントルコに止めをさしていなかったのがオスマントルコに幸いした。そして信長が攻め陥した、ペルシャのサファビ朝を奪取すべく虎視耽々と狙っていたのだ。
信長はフロイスからチムールという英雄の話しを聞いていて、自分と共通点のある人間だと思った。
当時すでに大帝国だったオスマントルコを破ったチムールの採った作戦が、バヤジット1世軍の背後を狙って襲いかかりバヤジット1世を捕らえ殺してしまったやり方だ。
いずれは衝突することは避けられないと思っていた信長は、若い頃の彼の運命を左右する決戦となった桶狭間の合戦とチムールの作戦とをラップさせていた。
その後の運命を決定的なものにすると想定していたオスマントルコとの戦いに勝利する確信を得た信長は、まだ台頭してきていないが、必ず将来台頭して来るであろうイングランド王国に照準を合わせた。運命の大決戦をするには、今までのような戦術だけでは無理で、それなりの準備が必要だと信長は感じていた。だから、信長は第一次侵攻をペルシャで終わりにしたのだ。
フロイスは信長のこの話しを聞いて、後に彼の書いた「日本史」で信長のことを「大胆かつ緻密」と評している。信長のことを正当に評価することは、今日の日本の行くべき方向を決める上で非常に有意義だ。その信長を最も正確かつ客観的に評しているのがフロイスの「日本史」であろう。
フロイスは「日本史」の中で信長という人物を、次のように言っている。
「彼は、日本人にしては、背は高い方で、しかもスリムで、いかにも節制し、鍛え抜いた体格をしていた。その後、発表された彼の似顔絵では、癇の強い神経質な顔つきに描かれているが、実物とは似ても似つかぬ顔つきで、これは明らかに、彼に対して悪感情を持っている者の意図が働いているとしか思えない。
実際の彼は、濃い髭をはやし、精悍そのものの顔つきをしていた。
彼は正義心が強く、一個人の人格としてのプライドは強烈なものを持っていた。そのプライドは、血統や身分などをまったく考慮しない、一人の人間として持つ能力に対する自信から生じたものだった。自己の能力を向上させるためには如何なる努力も惜しまず、若いときからしていたと、本人も後年述懐していた。
身分が低い者でも実力のある者なら重用したのも、彼のそういった公正な判断力からだった。
戦を非常に好んだのも、自己の実力を試してみたいという思いから発したもので、それだけに、常に自己を律し、修練することは怠らなかった。そして他の家来にも同じ努力を要求したから、彼の期待に応えられる者はよかったが、そうでない者に対しては苛烈なものであったことは容易に推測できる。
したがって、自らに加えられた屈辱に対しては目には目、歯には歯で徹底的に対応する一方で、ときには人情味と慈愛を示すという、極端さがあった。
自己を律するために、睡眠は極端に短く、特に朝早く起きることの出来ない者は、他に良い面があっても、絶対に評価しなかった。また食事も徹底して節し、酒も堕落の素として決して口にしなかった。そして身のまわりを常に清潔にし、だらしない人間を徹底的に排した。だから人と話をする際も、まわりくどい言い方や、だらだらした前置きを嫌った。
彼は驚異的な知性と明晰な判断力を持ち、戦運が自己に不利になっても、最後には必ず道を切り開いてみせる自己に対する信頼を持って物事に対処し、そしてその通りにしてきた。ある意味で奇跡を生む能力を持っていたが、それは神仏のお陰ではなく自己の努力の結果であると信じ、人間の能力の差は身分や血統ではなく、努力の差で生まれるだけであるという公正・平等主義に徹した人物だった。
とにかく、我々キリスト教を布教する宗教者も驚くほどの禁欲主義に徹した人物だった。といって宗教に対する姿勢は、神や仏の一切の礼拝、尊敬や、あらゆる迷信的習慣を無視・軽蔑していた。だから父の葬儀にも、他の者があきれるような振る舞いをしたという。
我々宗教者に対しても確固たる信念で接し、それまであった既存の仏教者の生き様に不信感を持ち、その後彼らに対して徹底した弾圧・殺戮の見せしめをしながらも、真摯に生きる宗教者には、たとえ我々のような異人であっても過分なほどの保護をしてくれる人物であった。そういう点から見れば、決して神をも恐れぬ無神論者だと決めつける訳にもいかない不思議な人物と言える。
それは、言い換えれば徹底した合理主義者であったのだろう。
自身にも厳しく、他の者にも厳しく対応した、率先垂範を地で実践した指導者で、ヨーロッパ諸国の支配者にも、これほどの人物を見たことはない。
戦に勝利した際にも、決して敗北者に対する暴行・略奪・強姦を許さず、支配者のみ処断し、その国の民には一切責任はないとしたポリシーは、当時の日本のみならず、ヨーロッパ諸国においても例のないことだった。
それ以外にも、彼の実行した政策は、ヨーロッパ諸国でも誰も為し得なかったものが多い。
たとえば、道路の整備をし、治安を良くし、それまでいたる処にあった通行税を取る関所も廃止して、往来を自由に出来るようにした。その結果、彼の治世になると、人々は夜でも旅行できるようになった。
彼のこの好意は民衆から歓迎された。一般の人々はますます彼に心惹かれ、彼を主君に持つことを喜んだ。
当時、名将と呼ばれる領主が、他にもたくさんいたらしいが、そういった国々でも、彼が替わって領主になることを民は期待したという。僧侶や他の領主にとっては悪魔の化身であっても、民にとっては最高の領主であったのだ。
市場を開放し、自由に商いをやれる制度をつくったことなどは、世界で類のない、画期的なものばかりだった。
不幸にも、家来の裏切りにあったが、わたしにいろいろとヨーロッパの事情を聞く彼の目には、いつしか日本のみならず、世界に自分の考えを広げて行こうとする思いがあったような気がしてならない。
そう思うと、イエスキリストの教えを広めて、民を救っていくことを標榜しながらも、実は、自国の植民地政策の片棒を担いでいる自分たちに失望せざるを得ない思いをさせた、世界で唯一の人物だったと言えよう」
二十世紀から二十一世紀に突入しようとしている現代でも、これだけの自己抑制・制御をし、しかも自己客観視も出来る指導者・支配者が200を超える国に一人でも存在しているか、はなはだ疑問だと言わざるを得ない。
信長が生きていたら、どういう展開になっていたか。
さらに、その後の信長の展開に戻ってみよう。



第三章 の(2) 16世紀のヨーロッパ



信長はフロイスからオスマントルコのスレイマン1世が1566年に没後1571年にオスマントルコはスペイン・ベネチアとの、レパント海戦で、敗退したことを聞いていた。フロイスと初対面した1569年の2年後のことだ。スレイマン1世は1520年、25歳のときトプカピ宮殿で即位し、その後1529年ウィーンを包囲し神聖ローマ帝国をも圧迫し、その勢いでイタリアと戦っていたフランスと同盟を結ぶことでヨーロッパ諸国との一種の不戦条約Capitulationを結んだ。
それによってイスラム教徒以外の外国人にオスマントルコ領での政治・通商上の自由を与えた。治外法権のルーツである。
後に、ヨーロッパ帝国主義の嵐がアジア諸国に吹き荒れたとき、彼等が採った策がこのCapitulationによる治外法権であり、アジア諸国はやりたい放題されるのである。
フロイスはポルトガルもスペインもいずれは衰退していくと言っていた。そしてイングランド王国が台頭してくるとも言っていたことを信長はよく憶えていた。事実、その後1580年にポルトガルはスペインに併合され、そのスペインは1588年にアルマダ海戦でイングランドに敗退した。しかし、信長がペルシャから帰国した1586年の春時点ではスペインはオスマントルコに勝利し、ポルトガルを併合する最盛期だった。だが信長はスペインをまったく意識していなかった。オスマントルコとイングランドが標的だった。いかに信長が天才的な先見性を持っているかを証明している。
信長はオスマントルコがスペイン・ベネチア連合にレパントの海戦でなぜ敗退したのか、それからさかのぼること33年前の1389年にプレヴェサの海戦で同連合艦隊を撃破して勝利していたのに、なぜその相手に負けたのか、その理由を知りたかったのだ。フロイスは明確に答えた。
それは航海技術と造船技術の差だった。オスマントルコは本来陸上戦が得意だ。しかし十五世紀末期にコロンブスによるアメリカ大陸発見からヨーロッパ世界は大航海の時代に入って十六世紀は航海と造船の技術力が国家の盛衰を決定する時期だった。ポルトガル、スペインが繁栄したのもそれが理由だ。だが十六世紀の後半から十七世紀にかけての産業革命が画期的技術革新を生み、イングランドの台頭の萌芽が見えてきたのを信長はしっかり見きわめていた。技術力なら日本の方は上だ。と信長は自信を持っていた。「日本の、というより、信長の技術力を見せつけてやる」と信長は思った。鉄砲、大砲の生産力ではヨーロッパよりはるかに凌いでいる。造船技術においても蒸気機関を発明したのはヨーロッパだがその蒸気機関を応用した信長の発想は誰にもまねの出来るものではなかった。
しかし、この切り札を使うのはイングランド王国というよりも後の大英帝国に対してだと、すでに決めていた。
信長の生きた十六世紀(1543年〜)はヨーロッパ諸国もある意味で戦国時代の下刻上の時代であったといえる。ローマ帝国が分裂したのが四世紀、東ローマ帝国が滅亡したのが1453年。ここからが群雄割拠の時代に入ったとみてよいだろう。
東ローマ帝国が消滅する前にオーストリアから起きたハプスブルグ家はオスマントルコ帝国よりも早く十三世紀に中央ヨーロッパの覇権の礎を築いていたし、オスマントルコもハプスブルグより少し遅れたが同じ十三世紀に建国している。しかしヨーロッパにおける世界帝国はローマ帝国しかない。東ローマ帝国滅亡後は中央ヨーロッパを中心に神聖ローマ帝国が起こった。
しかし所詮小国分立のどんぐりの背くらべでしかなかった。その中でオスマントルコとハプスブルグが頭ひとつ抜けていた程度で所詮ローマ帝国の比ではなかった。その中で十六世紀に多くの国が勃興した。1479年アラゴン・カスチラ両王国が合併して、イスパニア王国が成立し、1516年ハプスブルグ家がイスパニア王家の世襲を開始し、1580年ポルトガルをも併合した。
イングランド王国もエリザベス一世が即位したのが1558年だ。フランスのブルボン朝ができたのも1589年だ。オランダが独立宣言したのも1581年だ。ロシア王国のロマノフ王朝ができたのが少しおくれて1613年だ。信長が天下統一を意味する上洛を果たしたのが1568年であり、それから5年後の1573年に室町幕府を滅亡させ、実質上の天下布武を果たした。
まさに十六世紀後半は世界全体が古いパラダイムから新しいパラダイムに変わった地球レベルの分水嶺の時期であった。この時代にリーダーシップを勝ち獲った国がローマ帝国の継承権を握ると言って過言ではない時期だった。信長はこのことを充分認識していた。特にイングランド王国はアングロサクソン族という、強烈な支配意識の強い人種であることを、フロイスから聞いていた。いずれはこのアングロサクソンとの一騎討ちになるだろうと決めていた。だからオスマントルコとはその前哨戦程度に思っていたが、今までのインドやペルシャのように簡単にはいかないとは思っていたし、これからは陸上戦より海上戦になっていくだけに経済力と技術力がものをいうことも分かっていた。陸上戦のように人間同士の肉弾戦ではない。武器による近代戦のはしりになるはずだった。信長は国の体力の比較分析をまずやらなければならない。そのための情報収集が必要だ。彼はその為に秀吉を中国、インド、ペルシャに派遣していたのだ。情報収集能力と人心把握能力に長けている秀吉の長所を見抜いての最初からの起用だった。
フロイスは信長のこの長期的戦略を聞かされて度肝を抜かれた。「ひょっとしたら、この人物が世界はじめての支配者になるかもしれない」と本気で思った。



第三章 の(3) 天皇制 復帰



信長がいったん帰国した理由にはもうひとつあった。正親町天皇を永久追放した後の天皇即位を許さなかった信長だったが今回の中国、インド、ペルシャへの遠征で気がついたことがあった。3000年以上の歴史を持つ中国でも同じ王朝が1000年以上続いたものはない。ローマ帝国でもそうだ。万世一系という言葉があるが、これに当てはまるのは日本の天皇家だけだ。歴代の天皇の血統は父方、母方ともにはっきりしている。それが少なくとも1000年以上続いているにはそれなりの訳があるはずだ。それが今回の遠征で信長には分かった。
彼は吉法子といわれた子供のころから、世間のやることに矛盾を感じ続けていた。世の中不条理なことばかりでまったく理屈通りにいかない。なぜだか分からなかったが、とにかく世に反逆をすることが結局正しい、理にかなったものだと自分に言い聞かせてきた。権力というものの裏に権威というものが隠れていることにみんな気がついていないのだ。自分も権力のことしか考えたことはなかった。権威という言葉は知っていたが、所詮無意味なものだと思っていた。ところが、中国、インド、ペルシャに自分が行くと民衆が歓迎してくれる。
いっぽう実質統治者である中国の徐偉、インドのアルン、そしてペルシャにおける秀吉に対する民衆の対応は、自分に対するものと異質なものだった。権力あるものにたいする民衆の対応は恐怖からだ。だが自分にたいするものは友人にたいするのと同じ質のものだった。「これが権威の持つ力だ」と信長は思った。権力は常に変化・変動する。権威は変化しない・継続性のあるものだ。このことに気がついたとき、1000年以上継続している天皇家の持つ大いなる権威に敬意を表する気持ちになった。しかも大体において天皇家は権威だけを持ち、権力に執着しなかった。信長はそのときはじめて天皇家の偉大さと謙虚さを兼ねそなえた存在を認めた。それが信長を帰国させるもうひとつの理由だった。
京都の朝廷に正装して赴き、正親町天皇の孫で皇太子だった和仁親王に直接面会を申し入れ、今までのことを詫び、次期天皇になって頂くよう願い、申し入れた。和仁親王は、祖父の恨みも言わず、信長の真摯な態度と屈託のない申し入れに痛く感じ入られ謹んで受けられた。後陽成天皇の誕生だ。その後、信長の天皇家に対する対応は別格のものであったし、そういう信長に対し天皇も、他の公家にも言わないようなことまで信長には相談するぐらいの関係になった。
信長もこの関係を非常に大切にし、死ぬまで変わらぬ姿勢であった。
この信長と後陽成天皇との関係が、武家社会と公家社会の、その後徳川時代になっても良好な関係を続けられた遠因である。
その関係をぶち壊したのが、三代将軍 徳川家光である。
無能なリーダーで、しかも自身に何の功績もないのに、ただ世襲だけで権力を得る。こういった人間は必ず冷酷な独裁者になる。最悪のケースである。
家光・家綱・綱吉と続く徳川の三代が、日本の国を骨抜きにしてしまい、挙げ句の果て、人類史上唯一の被爆国民にしてしまうのである。
これで信長の心のひっかかりがとれ、あとはオスマントルコとの決戦の準備にかかるだけだった。



第三章 の(4) 経済力の強化



1586年から1589年までを、信長は日本国内の整備とオスマントルコと決戦のための準備期間とした。まず、土地の私有制度を認めた。それと日本独自の貨幣を造り、物々交換から貨幣による決済制度にした。また、それまで領地のオーナーであった大名は単なる各地域の総督になり政ごとだけを担い、税金の一部を彼等に給付し、残りは中央の信長に集まるようにした。オスマントルコとの決戦、そしてその後必ずやってくるヨーロッパ諸国と戦い抜くためには国力を強化しなければならない。当時、ヨーロッパ諸国の人口はイスパニアが1200万、イングランドが500万、オランダが150万、フランスが2000万、オスマントルコが2500万、と信長はフロイスから聞いていた。
一方日本は3000万を超えていた。中国、インドに継ぐ大国だった。それに経済力がつけば必ずヨーロッパ諸国を打ち負かすことは出来ると確信していた。信長は朝廷からの冠位を固辞し、その代償に堺と長崎における交易の一切の権益を握っていたのも経済力を重視したからだ。そして、徐偉の中国、アルンのインド、秀吉のペルシャからの産品を独占してシルクロードを通じて堺と長崎に集中し、そこで貿易をヨーロッパ諸国と行った。その時の支払いを日本の貨幣で行うこととしたため、日本の通貨は一躍世界どこでも使える国際的通貨となった。この3年間で経済力も世界の一流にのし上がった。最新の武器も日本の貨幣でいくらでも購入できる。
機は熟したと信長は決断した。
1590年正月の祝賀の挨拶に大坂城に来たフロイスに信長はオスマントルコとの決戦のため、この春に出陣することを披露した。3月に上海、4月にカルカッタ、そして5月にイスファハンからエルボルズ山脈の西沿いに添って北上し、カスピ海西岸のラシットに夏の間に要塞を築き10月に一気にコンスタンチノープルに攻め上がると信長はフロイスに説明し、意見を求めた。フロイスは「今までの戦略と違って、正面から攻めるのですか」と訊ねると、「天下を征服するような大決戦のときは王道の道しかないものだ」と自信満々に信長は答えた。
オスマントルコは確実に衰退の路を歩んでいる。と信長は思った。一方、ヨーロッパ諸国は着実に台頭してきている。それを示すように、イスパニアもイングランドもフランスもオランダもインドを狙っている。
アグラにいるアルンから信長に指示を求める書状が届いた。
信長はアルンの片腕のラルーンをカルカッタの総督として送り込み、20万の兵を与え、海岸沿いに500基の大砲を設置させるよう指示した。
一方秀吉にはイスファハンからコーラムシャに出てペルシャ湾に出、ペルシャ湾からインド洋の出口にあるドバイに基地をつくり、10万の兵と300隻の軍艦を用意させ待機するよう細かく指示を出した。ヨーロッパ諸国はアフリカ西岸を南下し、喜望峰をまわってインド洋に出てくるはずだ、そして必ずペルシャ湾のそばを通過していく。と確信していた。彼等が通過したあと、秀吉の海軍が後を追っていく作戦だ。
カルカッタの沖に着くと艦船から大砲を内陸に向かってぶっ放して脅かすのが彼等の常套手段だ。カルカッタ沖に来たとき陸からと海からの鋏み討ちだ。
両方から彼等の艦船に向かって大砲をぶっ放す。これで彼等はおしまいだ。
だが信長は戦を開く気はさらさらなかった。
彼等のアジア、アフリカに対する狙いはあくまで経済的成果が目的だということを信長は読みきっていた。陸と海から挟み討ちで大砲をぶっ放してから、秀吉に外交交渉をさせるつもりなのが、信長の狙いだ。そして、不戦条約を結び、カルカッタでの交易の権利を与える。有利な状況での不戦条約だから、こちら側の要求を受けさせる。すなわち、交易で得た利益に対する税を納めさせる。
一石二鳥だ。信長にとっては、標的はイングランドだ。
他のヨーロッパ諸国は太らせるだけ、太らせてあとで料理をすればよい。
イングランドだけは太らせない。すなわちイングランドとだけは不戦条約を結ばないで追い返す。
1590年にいよいよオスマントルコへの侵攻が始まった。
だが信長のあたまにはやせ細っていくイングランドの姿だけが浮かびほくそ笑むのだった。
予定どおり1590年3月、信長はおつきの武将として小西行長そしてその家来100
名たらずといっしょに10隻の船で上海に着いた。
10隻の船には大半が金の棒と日本の金貨幣が積まれてあった。
百名の家来といってもほとんど全員が金物師だ。鋳物の技術、加工の技術の専門集団だ。上海で船2隻分の金と貨幣を降ろし、中国伝統の漢方薬を積みこんだ。
特に腹下しの薬と傷薬を、それに加えて火薬を大量に積んだ。
カルカッタには4月の10日に着いた。
そこでも4隻分の金と貨幣を降ろしラルーンにヨーロッパ諸国との交易の資金として保管させた。その船に日持ちのよい乾燥食品を積ませた。
そして5月15日にペルシャ湾に入り、そこからペルシャ湾の根元にあるコーラムシャーを経由してイスファハンへ入った。7日でイスファハンに着いた。
イスファハンはペルシャでも珍しい川の流れているきれいな町だ。その名もZayndeh Rod (ザーヤンデ川)という。Zayndehは生命、Rodは川という意味だ。
ザーヤンデ川があったため、ペルシャ絨たんはイスファハン製が一番有名だ。ペルシャ人にとっては絨たんが財産でどこの家庭にも絨たんだけは立派なものを持っていた。ザーヤンデ川の手前で、信長はペルシャ湾からコーラムシャーを経て陸路に入ったところで乗り変えた駱駝を降りた。川の水を使って織った絨たんを洗っている少女たちを見て信長は秀吉に質問した。「あの者たちは何才になる」 秀吉は流暢なペルシャ語で「Chand Sol Darrand?」とお付きの者に聞いた。「Chardh Darrand」とその者は答えた。「十四才だそうです」「生まれて五才ぐらいから一枚の絨たんを一生かかって織る者もいるそうです」と秀吉は説明した。
信長は茶器とか壷とかいった美術品が好きだった。特に技術の粋を極めた一流品のコレクターだった。持って生まれた技術思考の強いタイプだから、高度な技術を凝らしたものには関心がある。
「それぞれの国にはユニークな文化がある、彼らの技術を大切にせよ」と信長は言った。秀吉はそれを彼らに伝えると、みんな信長にお辞儀をして「Kheiri Mamu Nuum」「Mote Chakerand」 と言った。
秀吉は「感謝します」「ありがとうございます」と言っていますと信長に伝えた。信長は満足そうだった。
イスファハンの起源は古く、紀元前6世紀、新バビロニアによるユダヤ人のバビロン捕囚者の一部が、現在のイスファハンの北部に居留したことに始まる。
後にペルシャ人が主に住みついたが、ユダヤ人、キリスト教アルメニア人、ゾロアスター教徒も少数だが住んでいる。
イスファハンはペルシャの数ある王朝の中でも最もペルシャ的で、現代のイラン国教であるイスラム教シーア派を初めて国教と定めたサファビ朝の首都である。
サファビ朝は1501年にイスラム教サファビ神秘主義団長イスマイール一世によって樹立され、1597年にはシャー(シャーは国王の意味)アッバス一世によって、首都を世界で最も美しい街にするために、ガズビンからイスファハンに移された。彼はザーヤンデ川にかかるアッラーヴェルディハーン橋や、ハージュ橋という石づくりの美しい橋を建造している。またマシャッドのモスクと比肩される、イマームモスクやシャイフロトフォッラーモスクも建造されたりして、20年も経たない間に人口は6万人から60万人となり、モスクも200近く建てられ、その街の素晴らしさは「イスファハンは世界の半分を占める」とまで言われた。紀元前6世紀のアケメネス朝と同時代のバビロン捕囚者の一部居留者からイスファハンの歴史が始まり、パルティア帝国、ササン朝、そしてサファビ朝と続く中でペルシャイスラム美術が頂点に達し、その美術品が、奈良平城京に伝わり、正倉院に今でもその素晴らしい美術品を残している。



第四章 の(1) ヨーロッパ列強への怒り



イスファハンに着いた信長は秀吉にドバイへ行くよう命じた。かねてからの計画通りヨーロッパ諸国がインドに侵攻してくるのを見越しての行動だ。信長がオスマントルコへ進軍することを知ったヨーロッパ諸国は必ず敵の留守を狙ってくる。インドでの交易を信長にコントロールされていることにプライドが許せないはずだ。有色人種を被支配民族と決めてかかっている傲慢な輩だ。それが信長には許せないのだ。以前、白人が有色人種に対して優越意識を持っていることをフロイスから聞いて「肌が白いというのは色素欠乏症という一種の病的症状だ。その色素欠乏症になると、色素を適度に持つ有色人種より皮膚が極めて弱く、年をとるにつれて、色素の分布バランスが極端に崩れてあざや、しみや、そばかすができ、それがひどくなると皮膚がんになる。その肌の白い人種が何ゆえ有色人種より優越するのか、それは逆ではないのか」と憤慨していたことがあった。「アフリカには黒い肌の人種がいるらしいが、インドにも南部に行くと真っ黒な人種がいるがみんな体格は立派で我々日本人より遥かに優っている。その肌の黒い人種を捕らえては奴隷として売買いしていると言うではないか。まったくもって許すまじき行為ぞ」とも言っていた。その白人の国であるヨーロッパ諸国をやっつけ、有色人種の優秀性を見せつけてやるとも言っていた。
その戦陣の総司令官を秀吉に任したのだ。秀吉は正攻法の戦いは得意でない。
謀略や調略が得意だ。だからオスマントルコとの戦いは正面から堂々と攻める正攻法だから、秀吉には不向きであることを見透かしての秀吉のドバイへの派遣だ。その代わりとして小西行長を連れて来たのだ。彼はフロイスの影響を受けてキリシタンになっていた。信長の基本戦略は、兵士は傭兵だ。しかも敵に対して過去から憎しみを抱いている民族を傭兵として使う。オスマントルコに憎しみを抱いている民族はやはりキリスト教の国でオスマントルコに支配されている民族だ。信長が目をつけたのはバルカン半島の国だ。
ペルシャはもともとは拝火教の国だ。しかし回教が七世紀にマホメットによってできたとき、ほとんどのペルシャ人は回教に改宗した。回教にはその後、スンニー派とシーア派とに分かれ、アラビア半島のアラブ人の国々がスンニーなので、ペルシャ人のペルシャはシーアを選んだ。オスマントルコはスンニー派だ。しかし同じ回教なので、その点においてペルシャとオスマントルコを戦わせることは得策ではないと考えていた。だがペルシャ人はペルシャ商人として有名な商売に長けた民族だ。経済的センスは持っている。特にカスピ海沿岸の都市にはアルメニア人が多い。彼らは白人で、キリスト教徒だ。カスピ海の真下にあるチャルース、アモールから西のラシットまでにはアルメニア人が多い。そのため、サファビ朝ペルシャはアルメニア人傭兵が多い。彼らの仲間はまたバルカン半島の国々にもたくさん住んでいる。だからラシットに拠点を置こうと考えたのだ。イスファハンにいるペルシャ人はほとんどシーア派回教徒だ。
信長はオスマントルコに侵攻することは彼らには秘密にしておくように小西行長に厳重に指示した。暑さの厳しい夏は小西行長をラシットに派遣して拠点づくりをさせ、自分はイスファハンに残り、ペルシャ人の啓蒙活動に専念した。
一方秀吉とは常に情報を交わしヨーロッパ諸国の動きを監視することも怠らなかった。「大胆かつ緻密」が信長の真骨頂だ。
秀吉は10万の兵をドバイで調達するため、信長が運んできた、金の棒を陸路で運ぶことにした。ペルシャ湾のインド洋への出口の海峡は幅がせいぜい数十キロで向こう岸がドバイの町だ。ペルシャ側は砂漠で内陸に入ったところにアケメネス朝の首都だったペルセポリスのあるシラズの町がある。ドバイはペルシャの国ではなく、アラブの国だが、半分以上はペルシャ人が住んでいる。しかもシラズ出身が多い。そして、このドバイの海峡には海賊が多い。ペルシャとアラブの交易船を襲って略奪するのだ。
だから、秀吉はペルシャ湾の海上を選ばず、シラズからドバイへ渡る陸路を選んだ。ドバイは商売の町だ、特に金を扱う業者が多い。ドバイでは金の棒があれば何でも買える。信長はドバイの町を日本の堺のようにしようと考えていた。秀吉が運んだ金の量はドバイで扱われている量の3倍はあった。これでドバイの商売の権利を独占するのが目的だ。
10万の兵をドバイで調達するため、インドのアルンが知っているドバイで一番、金を扱っている量の多いガラダリ家と交渉した。ガラダリ家もペルシャのシラズ出身だ。すぐに10万の兵は集まった。敵はヨーロッパの国だというだけで参加するアラブ人がほとんどだった。特にイングランドが相手というだけで憎しみを丸出しにする。よほどヨーロッパの国はひどいことをしてきたのだと秀吉は思った。
ドバイはまた昔から造船技術をもっていた。ただ鉄製の船は造ったことはない。その為に、大量の鋳物と加工の技術者を日本から連れてきたのだ。300隻の鉄製の蒸気軍艦を造るためだ。ドバイに秀吉が着く前に信長はインド洋からペルシャ湾経由イスファハンに向かうときに、ドバイに寄って先に技術者を降ろして準備をさせていた。秀吉が金を持ってドバイに入ったときには300隻の蒸気軍艦はほぼ完成していた。今更ながら信長の怒涛のような行動力とそのスピードに舌を巻いた。



第四章 の(2) カスピ海(カザールの海)



オスマントルコとの決戦はコンスタンチノープルでと信長は決めていた。小西行長は6月にはラシットに入って信長の指示に従って準備をしていた。信長は、ラシットからタブリズ経由で直接オスマントルコ領への侵攻と同時に、首都のコンスタンチノープルに近いバルカン半島からの両面作戦を考えていた。敵側は当然ペルシャから陸路を西へ侵攻してくると思っているはずだ。だが信長は敵が支配しているバルカン諸国を奪い、黒海での海上戦に持ちこみたいと思っていた。問題は如何にバルカン半島に入るかだ。陸路で入るなら、カスピ海の東側を北上し、トルクメニスタン、ウクライナ経由からモルドバ、ブルガリア、セルビアと入っていかなければならない。だが当時一番勢力のあったセルビアも、ブルガリアもオスマントルコに200年支配されていた。そこで、かつてローマ帝国に滅ぼされて以来、廃虚と化したバビロニア、アッシリア経由で地中海に出てそこからバルカン半島に入ることも考えた。しかしこの地域も十三世紀にオスマントルコが興るとその支配下に入った。信長は、たしかに強大な帝国だと思った。
そして、ペルシャの地図を見ていると、はっと信長は忘れている地域に気がついた。「コーカサスだ。そうだ黒海東岸とカスピ海西岸とに挟まれた、コーカサス地域(グルジアとアゼルバイジャンとアルメニア)をラシットから北上すればオスマントルコの頭上に出れる。しかもそこは既に我が領地の、元サファビ朝ペルシャ支配下で、オスマントルコの支配下にない」信長はすぐに小西行長に連絡をとり、ラシットの族長のゴラブチに艦船を建造するよう指示して金の棒を渡すように命じた。信長の考えはラシットからアゼルバイジャンのバクーまでカスピ海西岸陸路を北上し、バクーを軍事物資調達の基地としてから、一気に真西にアゼルバイジャン・グルジア地区を西進し、黒海東岸ポチに造船所を構え、軍港化するのが一番の作戦だということだった。なぜなら、ポチは同じ黒海の反対側西端にあるオスマントルコの首都コンスタンチノープルを、軍船で直接急襲することも、北からの陸上攻撃も同時にできる位置にあり、また、その東後方のバクーは鉄鉱石の他いろいろな金属の鉱床が無尽蔵に埋蔵されている地域の中心地で、ポチの軍港化を支える後方補給基地としては、最適だったからだ。
また、バクーは回教徒トルコ人が主に住んでいるが、ポチはキリスト教グルジア人が古来から住み、回教オスマントルコには敵対心が強かった。
信長はそう考えて、ラシットでの造船を中止して、ポチで造るよう指示した。
行長もゴラブチも理解できなかった。ポチはオスマントルコ領外ではあるが、国境近くなので危険はないかと。だが信長は一歩も二歩も先を読む。ラシットを基地とするより、バクーとポチを基地にする方が、数倍価値があると判断したのだ。それなら、ポチを堺のように貿易港のみならず、鉄砲製造の基地にしたように、造船の最大の基地に育てようと考えたのだ。そのために、行長とゴラブチに大量の金の棒を持たせてバクーとポチに行って、鉄の蒸気軍艦造船の手配をすることが最重要課題と考えた。これでドバイを基地としてインド洋の制海権、バクーとポチを基地としてユーラシア大陸の拠点でヨーロッパに対する重要な戦略基地ができると確信すると、信長は「これで、あとは地中海の基地をどこにつくるかだけだ」と思った。
信長のこれまでの世界戦略は、秀吉に負うところが大きかった。信長もそれを認めていた。ドバイからカルカッタ経由でこのあと、秀吉を日本に帰そうと決意した。そして日本の統治者にしようと思った。信長は、秀吉の百姓あがりの出身でよくここまで来たことを率直に認めた。もちろん、自分がいかなる出自の人間に対しても公正を守るから、秀吉にチャンスが巡ってきたことは事実だが、やはり本人にそれだけの実力がなければできるものではない。もし自分が、秀吉のように百姓出身であったら、今の自分があったかと自問すると自信はなかった。それだけに、口では猿と言っているが秀吉に一目置いていた。それが日本の統治者として、自分の後継者と決めた理由だった。
カスピ海は世界最大の湖である。塩水湖で 東のすぐ近くにアラル海、西には黒海が地中海につながっている。
多分、太古の時代には地中海、黒海、カスピ海、アラル海、そしてペルシャ湾
がつながってひとつの海を形成し、アフリカ大陸はグリーンランドよりも大きな島だった可能性がある。
アフリカの黒人は他の大陸にいる人種とは、まったく交じ合った形跡がない。
インド南部にも褐色人種がいるが、顔つきはまったく違う。
ユーラシア大陸において黒海、カスピ海は大洋だったとすると黒海の最大拠点がコンスタンチノープルであったように、カスピ海の最大拠点はバクーになる。そのバクーを中心にカザールという国があった。だからペルシャではカスピ海のことをカザールの海(Darius Khazaar)と今でも呼んでいる。
やはり、ルーツはトルコ系かアーリア系の白人であろう。
カスピ海沿岸に住むペルシャ人は白人が多い。ブロンド美人も多い。
ヨーロッパ白人のルーツはどうやらカスピ海地方と深い関係がありそうだ。
同じイスラム教徒でもペルシャ湾から東側、すなわちイラン、アフガニスタンとアラビア半島からアフリカに続く民族はまったく違うし、文化も違う。
言葉もペルシャ・アフガニスタン・インドは同じである。
信長がインド、ペルシャを同一視していた理由がそこら辺りにあったように思えてならない。



第四章 の(3) 落とし穴



秀吉から例の狼煙の情報システムで連絡が入った。ヨーロッパ諸国が動きだしたらしい。オランダの4隻の帆船が紅海沖を東に航海しているらしい。3日前のことだ。そして昨日イングランドの3隻の鉄製の艦船が同じルートを2日遅れて通って行った。多分あと3日から5日でこのペルシャ湾沖に差しかかるだろうという報告だった。信長は「2日の勝負だな」と計算した。イングランドの艦船がカルカッタ沖に着く前にオランダ船を攻撃して、不戦条約を結ぶ。そしてイングランドの艦船が着いたら、オランダ船も協力させてイングランドの艦船を追い返す。
信長は秀吉に20隻の軍艦にたった2000人の兵隊を載せてオランダ船を追跡するよう命令を出した。もちろん司令官は秀吉だ。ホルムズ海峡沖で待機していると、4隻のオランダ船が通り過ぎていった。秀吉の艦隊は悟られないため、常に1隻の小さな監視船以外は半日の距離をおくことにした。7月に入っていたのでインド洋は熱帯モンスーンの時期は終わって穏やかな海だった。7月13日オランダ船隊はカルカッタ沖に到着した。使者をカルカッタの総督のラルーンに送ろうとした時、まずカルカッタの岸壁に据えた500基の大砲が火を噴いた。
艦船めがけては撃たない。だがそのすさまじい轟音にオランダ船隊は仰天した。
混乱状態になったところに秀吉の艦隊がオランダ船隊に追いついた。そしてオランダ船隊の後方から、また大砲の嵐だ。完全に混乱状態に陥った時、秀吉から攻撃中止の合図が出された。陸からも、海上からも攻撃が止まったところで、白旗を艦首につけた秀吉の旗艦がオランダの旗艦に近づいた。オランダの旗艦も白旗を艦首に上げた。秀吉はオランダの旗艦に乗り込まずに、オランダの4隻の艦船をカルカッタの沖まで引導した。そしてカルカッタの港から出てきた船に両者の代表たちを載せて上陸した。早速、秀吉はラルーンのいる総督邸にオランダの代表者5名を招いた。グルーノという体の大きい司令官が前に出て秀吉と握手した。「何と大きな手で力が強いんだろう」と思ったが、秀吉も小さな手で渾身の力をこめて握りかえした。その秀吉の顔を見てグルーノ司令官はニタッと、笑った。会談は2時間で終わった。
インドとオランダの間で不戦条約と通商条約を結んだ。日本は一切頭を突っ込まずにあくまで仲介者の役割に徹した。インド・オランダの敵に対しては協力して問題の解決にあたる。オランダはカルカッタに東インド会社を設立し、インド・オランダ間の交易のオランダ代表部となる。アムステルダムにも西インド会社を設立して、インドの代表部となる。おたがいに問題が生じた時は代表部が話合いをして解決に努力する。といった趣旨の条約だ。会談が終わったあと「まあ、ゆっくりカルカッタで休養して下さい」と5人の代表のために豪華な邸を用意させた。
総督邸で秀吉とラルーンはイングランド対策を練った。秀吉の艦隊はとりあえずカルカッタ沖から東に1日ほどのインド大陸の湾にその身を隠した。「イングランドはオランダのようにはいかないぞ」とラルーンに秀吉は注意した。3隻の軍艦でくるのだから一挙にインド征服は狙ってはいないだろが船の威力もオランダとは格段に違うはずだ。「とにかく追い返すのが目的だから、1隻は沈没させないとだめだ」と秀吉はラルーンに言い聞かせた。「旗艦は攻撃してはだめだ」ラルーンは秀吉の話を聞きながら興奮していた。
秀吉はオランダの司令官グルーノほか4人を思い切りもてなした。人たらしの天才、秀吉の真骨頂発揮だ。「最近、イングランドの勢いが良いと聞くが、オランダと比較してどう思うか」と聞いてみた。グルーノは「オランダはまだ人口150万の小国だ。イングランドは500万いる。だが経済力ではオランダはイングランドよりも、また人口2000万を超えるフランスよりも上だけの力がある」と胸をはって答えた。秀吉はそんなこと百も承知で聞いているのだ。「では、今イングランドと戦争しても勝つ自信があるといわれるか」と挑発してみた。「もちろんだ。いつでも用意は出来ている」とグルーノは胸をはって答えた。「しめた、してやったり」と秀吉は内心つぶやいた。
2日後、イングランドの3隻の軍艦がカルカッタ沖にその姿を見せた。秀吉はかねてから用意していたインド人たちを使って、カルカッタ市内にこの情報をばらまかせた。当然、オランダの代表者たちの耳にも入った。彼らは秀吉に今後の対応策を尋ねた。「同じように条約を結ぶのか」とグルーノは秀吉に質問した。「もちろん、当方は平和第一主義だからそのつもりだが相手次第だ」と答えた。その裏で秀吉は湾内に潜んでいた艦隊の1隻にひそかにイングランド艦とカルカッタとの間に忍ばせそこから大砲を撃つよう指示した。イングランド側は当然カルカッタ内陸より放たれた攻撃と勘違いして、いっせいに大砲を陸地に向かって撃った。カルカッタのあちこちで大砲の爆発で混乱状態に陥った。「貴国と違って、イングランドという国は野蛮な国ですね」と秀吉はグルーノたちに言った。「まったくその通りですね」と嘆息する彼らに追い討ちをかけるように秀吉は「条約を結んだ貴国とは兄弟同然です。貴殿らの意見を拝聴したい」と質問した。「約束通り、我々は同士ですから、彼らと戦いましょう」と言ってすぐに彼らの艦隊に、イングランド艦に攻撃せよとの命令を出した。
その攻撃と同時に秀吉の20隻の艦隊からもイングランド艦の後ろ側から砲撃を開始した。あっという間に1隻のイングランド艦が撃沈された。あまりの攻撃のすさまじさに残った2隻のイングランド艦はインド洋の沖に消えていった。
秀吉は念のため追跡させ、動向を探らせた。反撃に転ずる意向があるかを確かめるためだ。しかし、彼らはまったくその気はなくて、一路自国への海路を進んだ。この報告を聞いた信長はニタリと笑って「猿め、なかなかやりおるわい」と思った。
統計学的にみると、すべてのものは二元論的に存在し、その割合は常に8割対
2割 と言われている。
白人が有色人種を差別化するのも、彼らが2割で、有色人種が8割いて、数で
少ない方が、質が良い、という考えだ。
そして、その2割の中でもまた、8割 対 2割 に分けられる。
その稀少の2割の中の2割が アングロサクソンだ。2割の中の8割が その他の白人種だ。
だから、ドイツ系アメリカ人、ロシア系アメリカ人、イタリア系アメリカ人、
フランス系アメリカ人…と言われるが、イギリス系アメリカ人と言われることはない。
すなわち、アングロサクソンが一番だということである。
白人種の中にも差別意識がある。
信長がイングランドをターゲットにしたのも、人種差別意識の原点がイングランド王国の支配意識の強烈なアングロサクソンだと分かったからだ。
スコットランド、アイルランドのイングランドに対する憎悪は並々ならぬものがある。
特に信長が驚いたのは、スコットランド人が結婚したときの初夜の前に、イングランド人の貴族が、新婦を試食する慣習があったことだ。
まさに、自分たち以外の人間は人間にあらず、という傲慢さは狂気沙汰である。
支配する側は、支配される側に対して何をしてもよい。という彼らの思想は人間を、動物以下の生物に落す仕業である。
信長が、今まで対峙してきたいろいろな悪行三昧の輩はたくさんいたが、これほど悪辣な類はない。こういった類は この世から抹殺しなければ、将来必ず
人類の悲劇を生むと、怒りとともに嘆息した。
結局、二十世紀においての数々の戦争、そして原爆投下という神をも恐れぬ仕業をさせてしまった。 
信長は イングランドだけは絶対に許せないと思った。



第五章 の(1) 歓喜の秀吉



7月の終わりに秀吉はオランダのグルーノ司令官の邸に別れの挨拶で訪問した。日本に帰るためだ。1584年に出雲から朝鮮に出陣してから6年が経っていた。秀吉も54才になっていた。信長が50才で日本の共和国の大統領になってから7年の歳月が経過していた。その後、信長は天皇制を復活させ立憲君主制と共和制を両立させた世界初の共和制君主国を建国した。あくまで国家の元首は国民によって選ばれる共和制だが、元首と副元首が対で選ばれる。元首は天皇家から擁立し、副元首は天皇家の推挙で選ばれ、元首が国民投票で決められ、レジティマシーを持ち、その権力の源泉は天皇が推挙した副元首に依って立つ体制だ。権威と権力の相互補完システムだ。後陽成天皇が国家元首で信長が副元首だった。元首の顔が天皇で体が副元首の信長だ。秀吉は信長の推薦状を持って日本に帰った。信長に替わって副元首になるためだ。実質上の統治者だ。
信長にとって地位などはどうでもよかった。自分には何が出来るのか。天は何を自分に求めているのか、それを知りたかった。そのためには地球の果てまで行くことも辞さないつもりだ。人間の価値は地位や権力でつくりあげたものは半減する。地位もない、権力もない、あるのは自分の体だけだ。それだけで大成を為す。これが本当の人間の価値だと信長は考えていた。だから、秀吉を評価した。裸一貫から世に出ることは至難の業だ。親からすべてのものを用意されて引き継ぐなら、誰でもそこそこのことは出来る。だがそんなものは、自分の価値になんら関係ない要素だ。無から有をつくることは有から有を増やす努力と能力に比して何百倍もの価値がある。比較になどならない。信長は世界を対象にそれをしたかった。
日本はもう秀吉のものだ、と言い聞かせた。
秀吉は日本への帰路をカルカッタから真東に向かわした。途中ジャワ島付近を通過したとき、検索船にジャワ島の状況を調査するよう命じた。琉球付近に来た時、検索船が追いついて来た。報告ではジャワというところは何千もの小さな島からなっており、島民は全部ポリネシア系人種で、主に漁による魚貝類と島に出来る無数の果実で生活していて文化はかなり遅れているところのようだ。
すでにオランダの宣教師が来て布教活動をしており、オランダの艦船も定期的に来て交易をしている。時間の問題でオランダの植民地にされるだろう。以前、ドバイで信長に秀吉は教えられたことがある。「のう、猿よ。インドまではヨーロッパと考えるべきだ。人種も宗教も違う。シャムから東は我々日本と同類の世界だ。インドは極東ヨーロッパで日本は極東アジアだ。その境界がシャムで西アジアだ。今後、ヨーロッパは必ずアジア全域を植民地にするつもりだ。だが日本とシャムだけは植民地には出来ない。なぜだと思うか分かるか」
秀吉は信長の考えているようなことは到底思いつかないと思った。「分かりません」と答えると信長は「よいか、猿。国が安定するか、他の国に侵略されて支配されるかはすべてリーダーの資質によって決まる。権力だけで国を治めようとしても長続きしない。民が尊敬できるリーダーでないと無理だ。それは権威があるかどうかだ。日本には天皇家がある。シャムにも王家がある。分かるな、権力だけで治めようとしたら必ず破滅する。我々アジア諸国は我々で助け合っていくことだ。そのパートナーはシャムだ。そこまでは、猿、そなたの仕事だぞ」信長から日本の実質統治者のお墨付きをもらったときに言われたことだ。
大坂に着くと、秀吉はフロイスを呼びだした。信長から日本を治めることを任された秀吉だが信長の言葉がまだ完全には理解できていなかったからだ。「のう、フロイス。わしは信長様が住んでおられたこの大坂城には住まないで、京の南の隅にある伏見に城を建てようと思うがいかがかな」「あの方はこの大坂の地は極めて戦略的に重要なところとお考えだったようです。だから、あまりあの方に気づかいされずに大坂城におられたほうが良いと思いますが」とフロイスは答えた。「だがあの方はひとたび激昂されると、もうおしまいだ」フロイスは、信長の本質を秀吉は分かっていないと思った。ただ、畏敬の念だけだと思った。信長という人物は小手先の考えや行動を極めて嫌う人だ。己を捨ててかかれば、これほど慈悲のある人はいないと思える。秀吉には、己を捨てることがまだ出来ないのだ、と思った。「信長様が建てられた二条城は帝の住まわれる御所に近いが、わしが考えている伏見はかなり南に下ったところにあるから京でもよいだろう」とフロイスの同意を求めた。だが、フロイスは何も答えなかった。何か嫌な予感がしたからだ。



第五章 の(2) 有頂天の秀吉



秀吉は後陽成天皇から副元首の地位を賜った。実質の支配者だ。以前の官位なら摂政・関白の位だ。そしてそれ以後の太政大臣、左右大臣以下の位は全部廃止になっていた。信長と後陽成天皇とが話合って決めていた。元首は立憲君主国家としての権威の象徴。副元首は共和制における大統領。この二人三脚だ。
そして各藩の藩主は今でいう国会議員と知事の兼任のようなもので名前も藩主から藩官に変わった。藩官は従来の藩主が基本的には務めるが世襲制はない。二代目藩官は藩の中にいくつか分かれている郡の郡官から選ばれる。郡官は武士の中から選ばれる。そして藩官が大坂城で日本の運営方針を話し合って決める。
国の運営は政務、外交、財政、経済、軍隊、内務の六つの機能に分け、それぞれ政務長官、外交長官、財政大臣、経済大臣、軍事総帥官、内務長官を各藩からの代表の藩官から選ぶ制度にした。その上ですべてを統制するのが副元首の秀吉だ。そして元首のいる京だけは藩ではなく都として、別格にした。公家は京という都を元首である帝から任命されて運営する役割だけで、日本全体の政治にはまったく関わりはなくなった。京だけは天皇個人の特別独立地域だ。ちょうどローマの中のバチカンと同じようなものだ。ローマ法王が天皇だ。
そして大坂は政治の中心地であるが、藩の一つには変わりはなくて秀吉が大坂藩の藩官でもある。大坂藩の藩官が副元首になっているから、大坂城が日本の政治の中心になってそこに各藩官が集まって日本の運営をしているだけだ。信長のあたらしい国家像はこの点にあった。フロイスは充分にこのことを知っていた。だが秀吉は、依然従来の形態、すなわち、朝廷と幕府の関係で、室町幕府から大坂幕府に変わって、今までの征夷大将軍が副元首になった程度に思っていた。伏見に副元首の居を構えることは大坂幕府から、伏見幕府になるだけだと思った。だが伏見は京という都だ。秀吉は、とっさの知恵にかけては図抜けた能力があった。だからこれまでも信長の下、いろいろな難局に直面したとき、信長を助けてきた。それを信長は評価した。だが将来を見透かす先見性はまったく持ち合わせていなかった。それは、志はあるが志の根元にある志節操がなかった。人間が人物といわれる為の要因がいくつかある。気力、志節操、道義、見識、器量、信念、仁愛、風韻(風格)といったもので人物ができてくればくるほど気力から志節操、そして道義・・・・と体得していき最後に風格ある人物になる。これが王道にいたるプロセスだ。秀吉にはまだ、志節操がなかったから先見性が育たなかったのだ。志は自分自身の人生ビジョンだ。志節操は国家ビジョンだ。この違いはその後の政策に大きく影響する。だが今の秀吉には、伏見幕府をつくる夢でいっぱいだった。



第五章 の(3) 乱心の秀吉



秀吉は家康の処遇に苦慮した。もともとは主君の信長とは対等の協力者だったから、自分にとっては主君のパートナーだ。しかし、信長はそのような過去のしがらみなどに捉われないでどんどん実力主義で抜擢してきたから、秀吉も家康を今は自分の家来として扱ったし、家康もそのことを重々承知していた。
結局閣僚の中でも一番重要なポストである政務長官にすれば、家康の性格から見ても立場から見ても最適であったのだが、外交長官にした。そして自分の子飼いの石田三成を政務長官にした。権力者の常で、自分の権力を守る為に回りを子飼いで固める。彼等が自分を破滅に導く麻薬の密売人になることに気がつかなくなるのだ。権力というものは恐ろしい麻薬だ。信長はこのことに気がついたから、権力という麻薬を中和する権威を保有する天皇を尊敬し、天皇制を復活したのだ。そして財政・経済大臣に弟の秀長、軍事総帥官に加藤清正、治安長官に福島正則を据えた。フロイスはこの人事で正しいのは、秀長と清正だけだと思った。
伏見城が完成した。別名聚楽第と呼ばれるほどの豪華絢爛な城だ。金張りの秀吉の寝室、金張りの茶室といった具合だ。その頃、石川五右衛門という伊賀の忍者を抜けた盗賊が京の町を荒らしていた。この盗賊、少し変わっていて貧しい者から盗むことはしないで、裕福な町人や武家屋敷を襲って盗みを働く。しかも大坂ではやらず、京を狙い打ちにする。秀吉の伏見城の回りには各藩からの藩官の屋敷が立ちならんでいたから五右衛門にとっては格好の場所だった。そして盗みを働いては、その近くで貧しい生活をしている農民や町人に盗んだ金品を施していたから、一般民衆には義賊として絶大な人気があった。秀吉にとって一番気に入らなかったのは、五右衛門が盗賊だからではなく、義賊として人気があったことだ。権力者はいつも自分の人気のことを気にするのが常だ。とうとう五右衛門は伏見城に盗みに入った。そして金張りの茶室から高価な茶器をまんまと盗んだ。秀吉は激怒して京都奉行の前田玄以にすぐに捕らえるよう厳命した。五右衛門は伏見の城下で人気のあった民衆に匿われていたところをついに捕らえられた。秀吉はみせしめのため五右衛門を釜湯での刑で、民衆の前で処刑した。
そして最悪なことにも、京都奉行の前田玄以の提案で、五右衛門の身内や、彼を匿った民衆にも罰を与え、未来永劫この罪を消すことの出来ない烙印を押してしまった。このことが、後日信長の逆鱗に触れることになろうとは秀吉は想像だにしなかった。秀吉は家康を伏見城に呼んだ。外交長官の任に就いた家康は今まで一度も海外に遠征したことがない。ペルシャのイスファハンにいる信長はこれからが正念場だ。今までは信長の戦略で勝利を収めてきた。しかし、オスマントルコとは正面から堂々と力づくで勝利をものにするのが目的だ。もちろん、戦略は無い訳ではなかった。しかし、信長は次に控えるイングランドとの対決を念頭にいれた正面突破だ。オスマントルコはヨーロッパの白人世界を支配し、東ローマ帝国さえも滅亡させた強国だ。彼らはヨーロッパ諸国のような純粋な白人ではないが、人種的にはカザール人と同じ白人系だ。信長は最終的には有色人種と白人種との決着をつけることが目的であった。有色人種が白人種を支配するという意味ではなく、白人種の優越意識を木っ端微塵にすることだった。だから白人系の国と戦をするときは力づくで勝利しなければならないと思っていた。
そのためには莫大な戦費がかかる。
家康は秀吉から事情を聞かされて、さすが信長殿だと思った。シャムから東のアジア諸国をまとめるのは日本の国の役割だと信長は秀吉に命じていた。外交長官の家康がこれからやるべきことを秀吉から伝えられて、これは大変な仕事だと思った。「信長様は今オスマントルコとの決戦の準備をされておられる。しかし信長様は、最終決戦の相手はイングランドだと決めておられる。オスマントルコとは陸上戦で、しかも首都のコンスタンチノープルを攻め落とすつもりでおられる、またイングランドとは海上戦で決着をつけるおつもりだ」と秀吉は家康に説明した。
「これは莫大な費用がかかる、しかし信長様はヨーロッパ諸国の帝国主義が経済に重点をおいた理由はそこにあることを見抜かれ、自分は他人の、しかも弱い者たちから搾取して戦をすることは断じてしないし、今までの日本での戦に民百姓を使って戦をしたことも一度もないと言っておられる」家康は「これは経済力の戦いになりましょうな」と秀吉に言った。「そのとおりだ」とため息をつきながらつぶやいた。「ご子弟の秀長殿の手腕にかかってきますな。だがあの方ならできるでしょう」と家康が言うと、秀吉もうなずきながら「貴殿の外交も重要になってくる、特にシャム国との友好、他のアジア諸国ですでにヨーロッパ諸国の魔の手が伸びている国との関係をどうするかじゃ、信長様はアジアのまとめは、わしの役目だと言っておられる」家康はいよいよ自分の出番が来たなと思った。


第六章 の(1) リーダーの真骨頂



ゴラブチと行長がバクーとポチに行って半年が過ぎた。バクーは既に補給基地化できた。ポチにおいて造船、武器の製造、そして蒸気機関車の製造と鉄道の建設という壮大な計画を実行するためだ。造船はほぼ完了した。1隻に2000人の兵士を運べる運搬船が250隻これで50万人の兵士を黒海のどこでも運べる。
信長はポチ経由で50万人の兵士をバルカン半島のセルビア、ブルガリアに運び、バルカン半島で、さらに50万人の兵を合流させ、100万人という未曾有の軍隊をバルカンから攻めいることを考えていた。バクーを中心にする今のアゼルバイジャン地方はトルコ系アゼルバイジャン人がほとんどだから、バクーで傭兵する気はなかった。一方ラシットからタブリズ経由でトルコ領に侵入しトルコ領を横断してコンスタンチノープルに攻める兵も100万人だ。100万人の軍隊が西のバルカン半島から、もう100万人の軍隊が東のペルシャからコンスタンチノープルを挟み打ちだ。信長がオスマントルコを攻め落としたかったのは、もちろん被支配国の解放であるが、今後のヨーロッパ戦略を考えると、コンスタンチノープルを手に入れたかったからだ。
コンスタンチノープルは黒海、地中海を結ぶ重要な地域である。黒海から川を通じて多くの国に入れるし、地中海からは南ヨーロッパ、中東、イベリア半島、北アフリカに上陸できる、そしてジブラルタル海峡から大西洋に出たらすべての世界に通じる。航海技術の進歩によって、人の往来は陸路から海路に変わった。それまで唯一のヨーロッパとアジアをつなぐシルクロードもそれによって忘れ去られていった。コンスタンチノープルはそういう点においてはユーラシア大陸最大の重要拠点だ。東ローマ帝国が西ローマ帝国よりも長命であったのも首都をコンスタンチノープルに置いたからであり、オスマントルコが東ローマ帝国を滅ぼしたのもコンスタンチノープルを奪回するためだった。信長にとってもオスマントルコとの決戦は彼らの支配領が目的ではなく、コンスタンチノープルの獲得が目的だった。
信長はもう57才になっていた。「もう7年も余分な人生を送った、余分な人生は10年でよい」と彼は思った。本来なら鉄道建設を完了させてから、侵攻したかったが、いくら大量の労働者を使っても一年半はかかると報告を受けた信長は兵士を運ぶ船が出来て、兵士を守る武器もそろったことを確認して、コンスタンチノープルへの侵攻開始を決断した。「今回の戦いは陸上戦だ、軍艦や大量にしかも速く運べる鉄道の完成はイングランドとの決戦の時まででよい」と判断したら、あとは疾風の如きの素早さだった。
1590年も終わりを迎えた頃信長はイスファハンからラシットに移った。ラシットでゴラブチ、行長と最終の作戦を練るためだ。カスピ海からバクーまで15日、バクーからポチを経由して黒海の北部を横断してコンスタンチノープルを横に見ながらバルカン半島のブルガリア・セルビアに入るには4ヶ月はかかる。そしてそこで50万人の傭兵をしてコンスタンチノープルに向かうのに1ヶ月、あわせて約半年の進軍だ。一方、ラシットからトルコのアナトリア地方を横断するのに3ヶ月かかる。信長はコンスタンチノープル落城を翌年の9月に設定した。どちらにしてもこの進軍は莫大なエネルギーの消費を余儀なくされることは誰にも分かっていた。ふつうの人間ならためらうのが当たり前だ。だが信長はこうと決めたら、うしろを振り向かない。この精神力・気力はどこから生まれてくるのか。ゴラブチも行長も信仰心の厚い人物だったから精神力には自信があったが、信長は桁が違っていた。
12月25日バクーに向かう50万人の軍団がラシットから北方に消えて行った。信長は自らこの軍隊の司令官として出発した。陸路の軍団はゴラブチを司令官に任命し、行長はゴラブチ軍団の兵站役にまわった。信長があえて困難な黒海を陸路で横断してバルカン半島に入る司令官になったのは、困難なことはリーダーが率先しない限り部下は心からリーダーを信頼しない事を知っていたからだ。リーダーを信頼しない組織など50万いようが無意味だ。桶狭間の合戦がそれを物語っていた。そのことを傭兵でありながら、兵士たちはよく知っていたから、みんな信長を信頼していた。ときには神のように燦然と輝く信長であり、またときには同じ兵士仲間のような親しみのある信長でもあったことが、この困難な行軍をかえって楽しいものにした。苦難や困難に遭遇したとき、その困難と戯れる自由自在の精神を持っているか、そこが人間の器量の分かれ目だ。信長は天下人になるまで決して恵まれた状態で戦をしたことはない。常に不利な状態での戦いをしてきた。しかしそれを楽しんでもいた。普段、もの静かな寡黙の信長であったが、終始笑いの絶えない今まで見たこともない一面を出していた。それだけ、この戦いが今までの中で最大のものであったかを物語る。



第六章 の(2) 桶狭間の再現



カスピ海は広い、世界最大の湖だ。日本列島がすっぽりと入る。信長が建てた安土城のそばにある琵琶湖を見て、信長は大きな湖だと思ったがスケールが違う。バクーはカスピ海の西側のちょうど真ん中あたりにある、今のアゼルバイジャンの首都だ。トルコ系と聞いていたので、反感を持っているのではと思ったがバクーに着いた大軍団を、バクーを治める総督も住民も歓迎してくれたのには信長も予想外だった。トルコ系というだけで、逆に元支配者だったペルシャ系サファビ朝から差別を受けているという。身内の骨肉の争いとよく似たものだと信長は、自分も若いころ経験した骨肉の争いを思いだした。
バクーの総督が信長のところに挨拶に来た。信長の名前は今やヨーロッパ中に知れ渡っていた。情報では、オスマントルコも警戒して準備を怠りなく着々と進めているらしい。「これから、何千キロの陸路の行軍は至難の業です。兵士も行軍するだけで脱落するものがかなり出るでしょう」と総督は信長に忠告のつもりで言った。「50万の兵士は一兵たりとも歩いての行軍はさせない。当初は蒸気機関車を考えていたが、時間的に間に合わない。だから駱駝機関車を用意した」総督はあっけに取られたようで「今、何と言われました」と聞き直した。「駱駝機関車じゃ」と信長は笑って答えて、家来のジャマールに何頭の駱駝を用意できたかと聞いた。「10万頭用意出来ました」とすんなり答えた。「10万頭の駱駝を」と信じられない様子で総督は言った。
信長は半年前にポチで船の建造をはじめるときに、ペルシャからアラビア半島の砂漠にいるベドウィン(放牧民族)から駱駝の買い付けをさせていた。
そしてポチで船の建造と同時に大型幌馬車を造らせていた。ひとつの幌馬車で100人は乗れるものだ。それを5000騎造らせた。その幌馬車を20頭の駱駝で引っ張らせる。駱駝からすれば楽々だ。総督は信長の奇想天外な発想に驚くとともに、その奇想を現実のものにする実行力に度肝を抜かれた。
「いつ出発できるか」とジャマールに聞いた。「明日にでも可能です」と誇らしげに答えるジャマールに「ふつうの行軍ならどれぐらいの時間がかかるのか」と聞いた。ジャマールは質問の意味がはっきり分からなったが、「1日20キロが限度ですから、150日はかかると思います」と信長の性格を熟知しているジャマールは具体的に答えた。信長は満足そうな表情で言った。「1日100キロ進めることが出来たら30日でサラエボに着けるな、そしてサラエボからコンスタンチノープルまで10日だ。余裕をみても60日でコンスタンチノープルを包囲できる。タブリズ経由部隊はアナトリアを横断するのに多めにみても60日で可能だ。そうすると敵は我々がコンスタンチノープルに辿り着くのは6月から7月とみているだろうから、そこへ3月に一気に攻め入ったら用意周到といっても何も出来ないであろう」と計算づくで説明した。総督もジャマールも唖然として信長の顔を見た。信長は冷静な顔をしていた。
1591年2月18日に信長の軍隊はサラエボに到着した。そこで更に50万の兵士が合流した。駱駝機関車は思った以上に快適で駱駝もまったく疲れた様子はなかったのを見て信長は合流した50万の兵士も駱駝機関車で運ぶことにした。サラエボからコンスタンチノープルまで10日かかる。50万の軍隊を二往復で100万運ぶのに計算上は30日で可能だが駱駝の疲れを考えて40日とした。コンスタンチノープルを包囲できるのを3月末とした。
タブリズから侵攻するゴラブチ部隊はほとんどがペルシャ人だ。ペルシャでは3月21日がノールーズという正月で7日間はみんな休む。それを考えて信長は、ノールーズ明けの3月29日にコンスタンチノープルで200万の兵士が合流し、3月31日に一挙に攻撃をすると決断してゴラブチ部隊に使いをやった。ノールーズを西アナトリアでゆっくり過ごしたゴラブチ部隊は歩行軍だっただけに、この休みは兵士の闘争意欲をいやが上にも駆りたてた。
3月29日信長、ゴラブチ、行長が3ヶ月ぶりに合流した。ラシットから信長がカスピ海を船出したときは、ふたりとも心配していたが、信長の部隊が長い行軍の旅でありながら、脱落者が出なかったことに驚いた。かえって 自分たちの部隊よりも士気が旺盛のように思えた。
3月30日コンスタンチノープルの城塞を探りに行かせていた10人の偵察隊が帰ってきて敵の動向を報告した。町の中に忍びこみ、一般民衆のうわさでは信長の軍隊がコンスタンチノープルの郊外に来たことを知ったのは2日前の3月28日のことで、皇帝は6月と思って準備していたため、まだ兵士も武器も集結しておらず、町の回りに壁をつくる計画をして、材料の調達が終わったところで、非常に動揺しているらしい。将校の多くは、信長を恐れて戦意を失くしていて外交交渉すべきだと皇帝に進言しているらしいとの報告であった。行長は今までの信長のやり方を知っていたので、戦わずして勝利をものにするものと思った。しかし、今回の信長は違っていた。断固攻撃して陥すことを命じた。
3月30日の夕刻、白旗を持った敵方の3人の使者が信長の陣屋を訪れた。皇帝からの文書を手渡しに来たという。信長は皇帝の文書をゴラブチに渡した。
ゴラブチは読んでいたが、途中で笑い出した。「完全降伏です。ただし皇帝は命乞いをしています」それを聞いた信長は激怒して、「自らの首を差し出すから、民衆の命乞いをするのが大将のすべきことなのに、完全降伏するから、自分の命乞いをするとはもっての他である。首をはねて送りかえせ」と言い放った。3人の使者は即、首をはねられ、そのひとりの頭に矢を刺し、明朝8時に攻撃を開始すると宣戦布告した手紙をつけて皇帝のところへ送り返した。
鬼の信長が久しぶりに復活したと行長は思った。だが信長は最初から、相手の文書の内容にかかわらずそうするつもりだった。とことん正面攻撃だ。その理由は、ひとつは、200万人の兵士の士気の問題があった。人間が極限状態になると、獣になる。そのエネルギーを発散させなければならない。しかし民衆にだけは向けさすことは許さない。だから兵士同士で殺し合うしかないのだ。もうひとつの理由は最後の敵イングランドに対するデモンストレーションだ。信長は30日の夜、全軍に明朝8時に攻撃開始することを伝えた。



第六章 の(3) 餌食・オスマントルコ



1591年3月31日オスマントルコとの決戦の火蓋がきられた。信長は一切の戦略を弄さず、200万という怒涛の軍団がコンスタンチノープルに押しよせた。
当時のコンスタンチノープルの人口が同じ200万人で世界でも指折りの大都市であった。大都市の人口と同じ数の兵士が一気に攻めてくる迫力だけでオスマントルコの皇帝は震えあがった。敵側の兵士も100万はいる。世界の1/5を支配する大帝国だ。兵士の数では200万でも300万でも用意は出来る。だが今回は信長の疾風の如き侵攻に為す手もなく、そこへ使者の首をはねられて送り返され、そのスピードと残忍さはかつてのジンギスカンのモンゴル帝国を彷彿させるインパクトを敵に与えた。スレイマン1世を失った後の帝国は勢力が凋落し、しかもチムールを彷彿させる信長のイメージが過去の恐怖を思い起こした。
もうそれだけで勝負ありだ。だが今回の信長は相手の出方などおかまいなしの攻撃をした。兵士の数では100万対200万だが士気の面では10倍違う。信長はやりたい放題だった。信長は敵の兵隊の半分を殲滅せよと命令を出した。50万人の殺戮だ。逃げまわる100万の兵隊など1万の兵隊のエネルギーしか発揮できない。20人で1人をなぶり殺しにするのと同じだ。戦いというよりリンチに近かった。朝の8時に攻撃を開始した戦いは1日で終わった。50万人の兵士の死体がコンスタンチノープルの町の中を埋め尽くした。
翌4月1日、皇帝と将軍格のものだけ処刑台に連れ出され公開で斬首の刑に処された。ただし家族はいっさいおかまいなしだった。ゴラブチは将来のことを心配して、男子の家族だけは絶っておいた方がいいと信長に進言したが、信長は取りあわなかった。後顧の憂いなど信長にとっては眼中になかった。彼の心の中はいかなる事態になっても無常観で占められていた。自分の帝国を少しでも長く維持したいと思えば後顧の憂いもあるだろう、だが信長にはそういったことにまったく関心がなかった。
オスマントルコが支配する国は解放され、もともとのトルコ領は総督を自分たちで選ぶことにさせた。そして信長は経済政策だけにかかわることにした。信長のこのやり方を、首をはねられた皇帝や将軍の一族さえ歓迎した。この国は大国だ、人口も多い、自治権を与えた方がかえって良いと信長は判断した。ただし経済政策では他のヨーロッパ諸国よりも遅れている。それに自分は加担しようと考えた。信長の考え方は合理的だ。その合理性をこの国の民衆はまだヨーロッパ諸国に比べて理解できていないと思った。まずは、そこにメスをいれヨーロッパに対抗出来る文化を育てることがこの国には必要だと思い、フロイスをコンスタンチノープルに呼ぼうと考えた。彼をこの国の指導者にするために。



第七章 の(1) ユーラシアの臍コンスタンチノープル



コンスタンチノープルを手中にした信長に、ゴラブチや行長は一度日本に帰国することを進言したが彼は首を縦には振らなかった。彼は人生50年と考えて生きてきた。そして49才のときにほとんど命を落しかけていた。光秀の裏切りに対しても怒りも無念さもなかった。淡々と自害するつもりだった。ところが、フロイスのところにいた、アフリカの黒人の弥助が自分を助け出してくれた。奴隷として点々と売られていった弥助が、はじめて人間扱いしてくれたのが信長で、それ以来信長のためには命を投げ出してでも信長の役に立ちたいと思っていた弥助であったから、奇跡的に助かった。だから、それ以降の人生は余分の人生だと思っていたし、それがここまでやってこられた最大の要因だと分かっていた。
「フロイスと弥助をコンスタンチノープルまで呼び寄せよ」とトプカピ宮殿で信長は行長に命令した。ふつうの伝達方法だったらコンスタンチノープルから日本までだったら1年はかかる。そしてそれからやって来るのに1年以上かかる。しかし今や信長はヨーロッパの1/3、トルコからペルシャにいたる黒海、カスピ海そしてペルシャ、インド、中国の実質支配者だ。日本への情報伝達設備も自由に国境を気にせず建設できる。今まで進軍してきたところには必ず以前よりもっと精密かつ長距離用、狼煙設備をこまめに設置しておいたため、1年かかる伝達時間が15日もあれば日本に届いた。しかも海上を高速蒸気船で走れる。
大坂を出て上海まで5日、上海からカルカッタまで20日、カルカッタからペルシャ湾のコーラムシャーまで10日、コーラムシャーから陸路ベイルートまで10日、ベイルートから地中海を北上コンスタンチノープルまで10日、計55日。余裕を見て70日で来られるはずだ。今、狼煙をあげれば4月20日にはフロイスに伝わる。準備して5月はじめに大坂を発てば7月中旬にはコンスタンチノープルに着く。それから後はフロイスと弥助に任せて、自分は今年中に地中海を一気に横断して大西洋に出て北上し、イングランドとできれば北海で年内決戦を信長は考えていた。
コンスタンチノープルはさすがに歴史的にも地理的にも重要な場所だと信長は町を見てまわって感じた。清州城から岐阜城、岐阜城から安土城、安土城から大坂城と彼は転々と居城を移していった。その中で大坂城のある浪花か、清洲城のある尾張が日本の一番大事な、へその部分にあたるところだと思っていた。
世界の主要な国、都市は必ず大きな川が海に流れ出る三角州の平野部のところにある。いわゆる人間の体でいえば、腕のつけ根のワキの部分だ。世界の文明の発祥地は必ずこの場所だ。日本ではそれは3ヶ所しかない。そのうちのふたつは大坂と尾張だ。そしてもう一つは関東の武蔵野の地だ。信長はコンスタンチノープルを見てまわり、この地が王朝や国家が変わっても常に首都に選ばれた理由が自分の目で見てよく分かった。巨大な黒海と地中海をつなぐ場所にあり、しかもそこにボスボラス海峡がある。昔から人間社会のみならず動物社会すなわち陸上動物は水を求めて移動し、その場所の確保のために争ってきた。海に面していない国は必ず海への出口を求めて戦ってきた。その理由は地理学上の重要拠点である腕のワキのつけ根の場所を得た者が繁栄するからだ。
コンスタンチノープルの中心にある聖ソフィア寺院を見てフロイスを呼ぶ決心をしたのもこういった地理学的重要なところには、いろいろな宗教が栄える。オスマントルコ帝国は回教だが、その前の東ローマ帝国はキリスト教だ。その大きなふたつの宗教が共存しているコンスタンチノープルはそれだけ宗教を超えた価値があり、宗教というものが結局のところ、国家経営と同じものであることを示していると、この町を見て信長は今まで自分が矛盾を感じていた宗教に対する不信感の原因を確信した思いだった。「宗教というものは大事だが、それが組織となったら堕落する、そして本来の純粋な宗教の意図から、その組織が大きくなればなるほど、はずれて行く。このことをフロイスに教えなければならない。彼なら日本の生臭坊主と違って分かるだろう」と考えたら、早くフロイスと弥助に会いたいと思った。
フロイスと弥助が4月30日に日本を発ったという知らせが入った。「6月末には着くな」と信長は思った。「それまでに、イングランドとの決戦の準備をしておこう」と行長と話した。行長は弥助が大好きだったので、弥助が来ると聞いて大喜びした。「弥助は以前から、自分たちアフリカ黒人の悲劇を救ってくれるのは殿しかこの世には いない。と言っておりました」それを聞いた信長が行長に諭すように言った。「弥助はな、秀吉と家康とそちの三人を合わせ持った能力の持ち主じゃ。秀吉の持っている臨機応変な発想、家康の持っている忍耐力、そしてそちの持っておる信仰心、これらを全部持っておる。彼がわしの敵だったら一番の大敵じゃ」行長はそれを聞いて驚きとともに、信長の何にもとらわれない自由自在な発想に今更ながら感服した。
「弥助をどうしてお呼びになったのですか」と行長が聞くと信長は遠くを見つめながら、「もし、このわしがイングランドとの戦いに勝って、弥助の故郷のアフリカの国々を解放したら、結局は最後の勝者は弥助だ。そうではないか。わしの命を救ったのは、あの弥助だ。わしは、弥助のためにはるばるこんな遠いところまで来させられたことになるではないか」としんみり語った。「ここまで来たら、弥助に乗せられるしかございませんな」と行長が笑って言うと、信長も「そうだな」と言いながら微笑んだ。この微笑がこの方の心の底を映している。余り底が深すぎて誰も理解できないだけだと行長は思った。
「ところで、イングランドとの戦いをそちはどう思うか」と信長は行長に聞いた。行長はあっけにとられた顔をした。今まで、信長が戦のことで家来の意見など聞いたことは一度もなかった。何と答えたらいいのか、とっさには浮かばなかった。「ゴラブチはどう考えておるかのう」とまた他人の意見を聞く。「殿、どうかなされたのですか。我々の意見を聞かれるなんて今まで一度もなかったことです」と行長に言われて信長は笑いながら答えた。「わしも、今まで多くの戦をしてきたが、いつもどうしていいのか分からないことばかりであった。ただ、いつも死だけは覚悟していた。だから死というものを恐いと思ったことはない。それが結果的には当意即妙の霊妙なる策略智計を得て勝利してきただけじゃ。わしがどうしていいか分からぬものを家来にどうして聞けようぞ。司令官というものは自分がやはり一番強くて、頭もよい兵士でなくてはならん。これが上の者の鉄則じゃ」「では今回はどうして、殿よりもすべてに劣っている家来に聞かれるのでしょうか」と行長は執拗に信長に聞いた。「それはのう、もう信長はいないからだ。人間というものは、遠くに目標を持って生きているときが一番いきいきと、しておる。目標が目の前に来ると空しくなるのじゃ」と信長は答えながら、また遠くを見つめていた。「分かりました。ゴラブチと相談してみます」と行長は答えて部屋を出ていった。



第七章 の(2) 躁鬱の狭間での爆発



信長はもともと、鬱症の気がある。何か目標に向かって猛進しているときは頭もからだも生気がある。最終のイングランドとの戦いがあるのに、もうひとつ気力が出ない。「なぜ、このような気分になるのか分からないが、昔このような気分になった記憶がある。それは何だろう」と想い起こしていると父信秀のことが心に浮かんだ。「分からん、父上と何か関係があるのか。父が死んだときのことが思い浮かぶが」
しかし、イングランドとの決戦の準備は行長とゴラブチとで着々と進められていた。今度は海上戦だ。戦艦の数と性能の勝負だ。黒海東岸のポチで使った船は運搬船だ。ドバイからカルカッタまで秀吉が使った300隻の船は鉄製の戦艦だ。
この戦艦を地中海まで運ぶのに多分4、5ヶ月はかかる。それともポチかアレキサンドリアで新たに造船するかでふたりは悩んでいた。イングランドとの戦いは量の勝負ではなく質の勝負だということも信長から教えられていた。
その点からアレキサンドリアで造船するのが一番いい。しかもアレキサンドリアは昔から造船技術を持ったエジプト人がいる。「問題はどのレベルの船が、何隻要るかだな」とふたりで話し合う日々が続いた。「とにかくアレキサンドリアで造船しよう。ドバイにある戦艦の3倍の大きさと5倍の数の大砲を載せた船を100隻つくろう」とふたりで結論を出して信長のところに許可をもらいに行った。
何か言われるかとふたりが恐る恐る説明すると、信長は何も言わずに許可をした。「どうも、おかしい。最近の信長様は」と行長がひとりでつぶやくと「そうだな、今までの殿とはどこか様子が違う」と言いながら、自分たちの意見が通ってほっとしてトプカピ宮殿を出ようとしたら目の前にフロイスと弥助が立っていた。
「やあ、着かれたか。さぞかし疲れたであろう。信長様にお会いになられるか」と行長が聞くと、ふたりはうなずいた。
4人でまた宮殿の信長のところに行った。フロイスと弥助の顔を見た信長は久しぶりの笑顔を見せた。「よく来てくれたのう、さぞかし厳しい旅であったろう。今日はゆっくり休むがよい」と信長はふたりを気づかって言ったが、フロイスが何かおかしい。しかし言われるままに下がろうとしたとき信長がふたりを止めた。「フロイス、何か心配なことが日本であったのか。それは秀吉のことではないのか」とさすが、感の良い信長は言った。ふたりはまた信長のところに戻り、行長とゴラブチもその後にいた。
フロイスが黙っているので、弥助が話し出した。秀吉が副元首になってから、居城を京都の伏見に移したこと、その城の金張りの茶室など贅沢三昧なことなどを話している間は信長の表情は余り変わらなかった。「猿め、ちょっと調子に乗っておるな」程度しか思っていない様子だった。「しかし、京都の伏見に住むのはかまわんが、大坂城は誰が住んでおるのじゃ」と信長は聞いた。信長にとっては大坂城が日本の政治の中心だ。秀吉が自分に気をつかって住むのは伏見城にしていると思っていた。「大坂城は誰もいません」と弥助は答えた。「今、何と言ったか。弥助」と信長の表情が以前の鬼のような顔に変わった。「秀吉様は伏見に幕府を開かれました。わたしは伏見に城を建てることの相談は受けましたが強く反対しませんでした。わたしがもっとあのとき信長様の考えを伝え、強く反対するべきだったのです」とフロイスは秀吉のことをかばったが、黒人で奴隷で、差別を受けてきた弥助にとって我慢できない秀吉の差別政策のことを、石川五右衛門事件のことから話しはじめた。
信長は真っ赤な顔になっていくのが自分でも分かった。「あの、猿め。自分の出自を考えたことがないのか。あさましい奴め」と憤激する信長の表情を見て行長とゴラブチはやっといつもの信長に戻ったと思った。「行長、ゴラブチ。明日もう一度参れ、先程のはなしを再吟味する」ときりっとした表情で言った。「みんな、下がってよい」と言われて4人は恐る恐る引き上げた。
ひとりになっても信長の怒りはおさまらなかった。だがふと、そのとき我に戻って、先程までの気分の原因が分かった。父信秀が死んだとき、父とその家来どもに対する猛烈な怒りがまだ少年の信長に湧き上がったのだった。「怒りだ、義憤がこのわしをここまで引っ張ってきたのだ」と信長は悟った。
人間が行動を起こすとき、最も大きなエネルギー源になるのが怒りだ。特に
義憤が強烈なエネルギーを生む。
怒りのない人間など本質的にいない。ただ抑えているだけで、表面上とりつくろっていても、怒りのエネルギーはいつか爆発する。怒りのエネルギーを爆発させると、今度は情のエネルギーがふつふつと湧いてくる。だから怒りの大きな人間ほど情も大きい。信長が典型だ。
怒りを抑える人間は、情のエネルギーが湧いてこない。家康が典型だ。
怒りのエネルギーをそのまま爆発もさせず、抑えることもせず、自分の利にうまく転化する、相手を喜ばす術で人をたらす。秀吉が典型だ。



第七章 の(3) 黒人リーダー 弥助



信長は4人を翌日呼びだした。コンスタンチノープルの統治者を弥助にすること。フロイスはこのトルコの国の宗教・文化をヨーロッパ並みにすること。を言い渡した。弥助は仰天したが、他の3人は十分納得した。特にフロイスは狂喜した。自分がやりたくてもポルトガルの国の指示があって日本で納得のいく仕事をしていなかった。「フロイスよ、宗教というものは本来それぞれ個人の内にあるものではないのか。なにゆえ、教えを広めたいのか。わしにはそちらのやっておる布教活動の動機に問題があるように思う。そちは純粋にデウスの神の教えを多くの人々に伝えたいのであろう。しかしそれは、そちらの勝手じゃ。日本には日本の風土がある。中国にもある。インドにもある。ここにもある。それをひとつの教えで縛るのは道理に合わん。そちなら分かっているはずじゃ。宗教の原点である信仰心をここで一人一人の民に一対一で教えてやってほしい。宗教は不要じゃ」信長に諭された気持ちでフロイスは感激した。
「さあ、行長、ゴラブチ。わしは年内にイングランドを打ち破る。海上戦ではなく、ブリテン島に上陸して首都のロンドンを陥落させる。その方策をこれから授けるからすぐに準備にとりかかれ」行長とゴラブチは戦慄する思いだった。「かねてからの蒸気機関車と鉄道の建設はどこまで行っておるか」と聞かれてゴラブチが答えた。「すでに、ハプスブルグ家の支配するオーストリアの手前のプラハまで完成しています。ハプスブルグ家の協力があれば、ブルボン家も同調して年内にはイングランドを目の前に出来るドーバー海峡まで完成できます」「よし、それではすぐにハプスブルグ家、ブルボン家との外交交渉に入れ、そしてブルボン家には、ドーバー海峡を100万人の兵士が渡れる大型運搬船とそれを守る戦艦を作らせるよう交渉せよ。問題はブルボン家だ。だがブルボン家は基本的には戦を好まない。そこをうまく飴と鞭の使い分けをするのだ。こういったときは猿めがいると便利じゃがのう」
指示を受けたゴラブチはもともとペルシャの貴族で、昔からラシットの族長をしている家系でフランスのブルボン家とは関係が深い。ただブルボン家とイングランドのビクトリア家とも関係が深い。それはハプスブルグ家も同じだ。彼らは自分たちの王朝を末長く守るため、各家とも姻戚関係を結んでいる。しかし、所詮自分たちの王朝を守るためだ。信長にとってはそこが付け目だ。「ハプスブルグ家には中央ヨーロッパをやると言って、そしてブルボン家にはイングランドとイベリア半島のイスパニア王国をやると言って条約を締結するのだ。ゴラブチ、そちの今回の仕事は大事だぞ」「やるというのは、支配させるということですか」とゴラブチが不満そうな顔をした。「そうではない、あいつらは所詮同じ穴のむじなじゃ。イングランドを叩けば首のない鶏がばたばたしておるだけじゃ。あんな強欲者たちは共食いさせればいいのじゃ」それを聞いてゴラブチは信長に弱い者に対する情が依然あることを知って感激すると同時に自己の責任の重大さを感じた。



第八章 の(1) 勧善懲悪



ゴラブチからの使者が帰ってきた。コンスタンチノープルからはすでに蒸気機関車の鉄道がウイーン、プラハ、ザグレブ、ベルリン、フランクフルトまで完成していた。パリまでもう少しだ。その鉄道を使ってゴラブチはハプスブルグ家、ブルボン家との交渉を続けていた。報告ではほぼ両家とも合意したと書いてあった。彼らの決断の最大要因は鉄道であった。イングランドで蒸気機関車は発明されたが、イングランドは島国だから鉄道網の重要さを認識していなかった。大陸の国にとっては鉄道を利用できるかどうかはこれからの経済活動に重要な影響を与える。そこに目をつけ、いち早く鉄道網を建設した信長の彗眼に彼らは脅威を感じたのだ。
「よし、12月1日にコンスタンチノープルを出発だ。そして12月20日にドーバー海峡を100万の軍隊が渡ってブリテン島に上陸する。ハプスブルグ家、ブルボン家は何もしないで静観しておればよいと伝えよ。ゴラブチはハプスブルグ家、ブルボン家と毎晩パーティーをやっておれ。信長がイングランドを打ち破ったことをパーティーの場に報せてやるからと言っておけ」信長はもう勝利は自分のものだと確信した。
12月1日に出発した100万の軍隊はまさに二十世紀の第一次世界大戦そのものに近い戦争であった。それまでの歩行する十字軍のイメージしかなかった戦に近代的戦争方法を信長は世界ではじめて実現させた。300年も前にだ。
その時代、航海術の先進性が国の盛衰を決める大きな要因であったのを、信長は完全に覆した。イングランドがいかに航海技術で先進していても、信長の300年の先進性にはまったく歯が立たない。12月20日ドーバー海峡をブルボン家が用意した大型運搬船でブリテン島に上陸する信長の軍隊は第二次世界大戦で連合軍がノルマンディーに上陸した姿を彷彿させるものがあった。連合軍が上陸したら勝負があったと同じで、信長軍がブリテン島に上陸した時点で勝負は決まった。今までイングランド王国に支配され苦しめられてきた、スコットランド、アイルランドからもイングランドを攻めたからだ。その攻め方は苛烈極まるものであった。さすがの信長の掟も彼らを抑えることは出来なかった。
「なんと、人間の憎しみというものは、ここまでのことを同じ人間にできる大きな力があるのか」と改めて人間の愚かさに嘆息するのだった。
遂に信長はロンドンに100万の兵士とともに入った。スコットランドとアイルランドの兵士たちが大歓迎してくれた。
バッキンガム宮殿の前で信長は行長とゴラブチに演説台を用意するように命じた。意味が分からなかったが、とにかく家来に用意させた。信長はスコットランド、アイルランドの兵士のイングランドに対する憎しみの報復行為を見て、今更ながらにイングランドがこれまでやってきた非道の大きさを感じた。しかし、これ以上続けさせることは出来なかった。そこで、信長は彼らのみならず、イングランドの特に民衆に向かって演説をすることにした。
このことは、前々からイングランドに侵攻してロンドンを征覇した際にする予定だったことだが、イングランドに対する憎悪を持つ人々の多さを目のあたりにしてその時期を早めた。それでないとまた何の罪もない民衆が犠牲になると思ったからだ。演説台に立った信長を見て10万以上の人が集まって来た。何事がはじまるのかと民衆は固唾を飲んだ。演説台に立った信長はこのために連れて来た弥助を通訳として横に立たせた。
信長の演説がはじまった。「我は、はるばる日本の地からやってきた信長と申す。我が軍隊は日本の地を発ち中国、インド、ペルシャ、トルコと侵攻し、この最終目的地イングランドに進軍するために8年以上を費やした。これらの国々はすべてその後自立した国家として、その国の民によって治めていくよう図ってきた。それまでの支配者の横暴に苦しむ民を救うためにしてきた。人間には生まれもっての使命があり、国を治める使命を持つ人物が一番大事にするべきものが民であるということを忘れてはならない。その使命を忘れた者が国を治めると民が苦しみ、結局国自体も衰退してゆく。国家の根元は民にある。国家を治める者は民の公僕であることが、国家としての基本である。しかしながら、世界に多くの国家があるがこの基本に沿った国家運営を行っているところは皆無である。動物にも強者と弱者があるように、人間にも強者と弱者がある。しかし、強者が弱者を食い物にする動物は多けれど、搾取する動物は我が人間だけである。弱者を数多くし、強者を数少なくしたのは天の配剤である。それは強者が弱者を搾取することを認めていない証拠である。強者が弱者を搾取すると結局その動物
は絶滅する運命を辿ることになる。これら我が侵攻に遭遇した国々はみな搾取国家であったが、まだ救いは自国の民を搾取するだけであった。 しかしながら、このヨーロッパの諸国は他国の民を搾取し、それをもって我が国家の繁栄と嘯いてきたことは、神をも欺く極悪非道の行為である。特に、生まれた環境、風土によって神が配剤したそれぞれの国の、民の皮膚の色が、自分たちが白いということを最上と勝手に決めつけ、それ以外の、皮膚の色の人間を蔑み、迫害し、あげくの果ては鬼畜の如き扱いをしてきたことは許すまじき行為である。我は、その許すまじき国家を懲らしめるためにここまでやって来た。そしてこの地がその最後の国家である。
今、ここに宣言する。アフリカ、アジア、その他の多くの弱き国々は、本日をもって、搾取してきたヨーロッパ諸国から解放され自由の身となった。特に厳命しておく。アフリカの肌の黒い人間を奴隷として物のごとき扱いをすることはいかなる国家も許されてはいないことを。ここにいる肌の黒い弥助なる者は極めて有能であるから、トルコの新しい総督となった。それが、人間社会に一番欠落している公正さを回復させる第一歩とした」信長は演説台を降りた
新しい人間復活宣言だった。弥助の目が涙で光っていた。聞いていた10万の観衆の中から拍手が聞こえ出した。



第八章 の(2) 無常・信長 −(完)−



信長の人間復活宣言はヨーロッパ諸国に伝わった。条約を締結したブルボン家もハプスブルグ家もこの信長のロンドンでの演説の内容を聞いて自分たちも結局イングランドと同じことになったことを悟った。自分たちの今までやってきた帝国主義に信長日本を加えてやったつもりでいた。だが信長の意図は、彼らの価値基準とまったく違っていた。
人間は、自分の考えが他人の考えでもあるとつい勘違いするのが一般凡人の常だ。だが生まれもっての大きな使命を受け、それを認識している、選ばれた人材はその基準には当てはまらない。そこが凡人が理解できないで、誤解するところだ。信長も幼少の頃から誤解され通しだった。親・兄弟からも理解されなかった。家来からも理解されなかった。理解されるということは理解する人間にとって都合のよいことをすることだ、ということを信長は小さなときから体で知っていた。だから常に反発してきた。迎合することが一番の悪徳だと思っていた。「猿め、わしの最も忌み嫌うことを最後にやりおった。しょせん、奴も単にわしに迎合しておっただけだ」
1592年6月、信長は日本に帰った。約2年ぶりだ。大坂の淀川の河口にある港に着くと秀吉が出迎えに来ていた。船から秀吉の姿が船台に見えた。遠くからでも分かる金ぴかの羽織を着ている。「猿め、己を見失ったか」と信長は思った。自分の前では以前と変わらぬ振る舞いをするなら、まだましだ。それならまだ癒る可能性はある。そのとき信長は決断した。
事前に秀吉と家康に出迎えに来るよう指示を送っていた。船から信長が降りてくると、秀吉と家康が近づいてきた。まず秀吉が家康よりも前に出た。そのとき、信長の怒りの言葉が秀吉に投げられた。「無礼者め、わしの協力者の家康殿をさしおいて前に出て来る貴様はわしの家来ぞ。下がれおれ!」秀吉は真っ青な顔になって後ずさりした。家康はその横で地味な羽織を着て静かに立って信長に頭を下げた。「家康殿よ、武蔵野に江戸という町を造ったと聞いたが、わしはこの馬鹿猿には大坂・尾張の大事さを常々教えていたが、そなたには何も言ってなかったのによく武蔵野の地に目をつけられたのう。この馬鹿猿はわしの真似をしておる、まさに猿真似じゃ。しかもそれを分かっておらんから伏見などに城を作りおった。それはまだ許される。許すまじきは、自分の城下の民に差別意識を植えつけおったことは死罪に値する。石川五右衛門とかいう義賊の人気を妬み、釜ゆでの刑に処し、それをかばった民をも罰し、その家族、縁者まで罪人の烙印を押すとは、偽善の宗教者の天罰より大きい。家康殿、今後は貴殿が江戸から、帝を敬い、政りごとを担って下され」
信長はそう言って、かねてから用意させてあったものを出すよう指示した。港にはたくさんの群衆が信長の顔を見ようと集まってその光景を見ていた。「みなの衆!今のこと聞いたであろう!よくよく思い違いをするでない!人は生まれや、体つきや、肌の色で判断してはならぬ、よいな!」と信長は叫んだ。そして家来に指示した。大きな釜が引きだされ、沸騰した湯の中に秀吉は放り込まれた。さすがの家康も度肝を抜かれた。しかし彼は知っていた。信長殿は自分にも警告されておられるのだということを。
大坂城に戻った信長は、独りになって思い出した。「丁度あれは10年前だ、わしはあのとき死んでおったのだ。余分な10年と思って生きてきた。もういいだろう」天守閣に上った信長は10年ぶりに「敦盛」を舞った。「人間五十年、下天の内をくらぶれば夢、幻の如くなり、ひとたび生を得て滅せぬもののあるべきか」そして信長は自分の59年の人生にピリオドをつけた。薄らいでゆく真っ暗な意識の中でかすかな光が差した。
「やはり、神はおられたのう」
−完−




おわりに



序章で申し上げましたように この小説は あくまで、信長が本能寺の変に遭ったとき、史実としては自害して果てたとなっていますが、仮に生き延びることが出来たと仮定したときに、信長なら、どう生きたか、どう考えたか、日本だけではなく、世界をどう見ていたか、といった視点で著者の大胆かつ希望的予測を勝手気ままに書き綴ってみました。
特に信長の人生観が如実に表れている「人間五十年 下天の内をくらぶれば夢幻の如くなり、ひとたび生を受け 滅せぬもののあるべきや」という「敦盛」の厭世観を常に意識していた信長が、たとえ生き延びたとしても、昨今の日本の指導者のような醜体を露見するようなことはせず、自分の生きざまを特定したと著者は考えました。
そこで彼は49歳で死んだのですが、49歳から59歳までの10年間に限定して、如何に生きたかを想像して書いてみました。
かつては 42歳が男性の厄年だといわれていましたが、それは人間の寿命が50歳だと考えられていたときのことで、80歳が平均寿命となった現在の日本では、50歳代後半が本当の厄年だと考えられるようになってきています。
59歳という歳は、そういう点において荒波の社会で生きる男性にとって最も波の高いときであります。いや、昨今の女性上位時代の日本においては、女性にとっても59歳という歳は一番、波の高い、荒れ狂う世代と言えるのではないでしょうか。
信長の10年間の生きざまをみて、読者のみなさんが、この混沌とした時代の波を如何に乗り越えていけるかの一考に役立つならば、著者としてこれほどのよろこびはないでしょう。

平成12年10月20日 新田 論