第二十四章 正しい考え方

生・死の概念
“生が好くて死が悪い”という考え方が、わたしたち人間の錯覚だったのです。
死をタブー視してきたのがこれまでの常識の結果、わたしたち人間社会だけに差別・不条理・戦争という悲劇が繰り返されてきたのです。
好い・悪いというのは、自我意識(エゴ)にとっての好い・悪いという判断であって、本当の自分、つまり、全体観にとっては好い・悪いといった判断など一切ないのです。
自我意識(エゴ)は実現能力を一切持っていません。
何故なら、自我意識(エゴ)とは、過去・現在・未来に「想い」を馳せる部分観に他ならないからです。実現能力を持っているのは『今、ここ』を生きる全体観であります。『今、ここ』を生きる全体観には自我意識(エゴ)が介入する余地はありません。
従って、成熟した自我意識(エゴ)で以って、『今、ここ』を断続的であっても生きる以外、わたしたち人間にとっての道はありません。
そのためには、“死が好くて生が悪い”とするコペルニクス的どんでん返しの考え方に変わらなければならないのです。
それがまさに、正しい概念(正しい「考え方」)に他なりません。
“生が好くて死が悪い”という考え方こそが、生・死の概念(生・死の間違った知識=生・死の間違った「考え方」)なのであります。
つまり、“自分もいつか必ず死ぬ”、つまり、“死にたくない”という死の(不在)概念こそが、“生が好くて死が悪い”という生・死の概念(生・死の間違った知識=生・死の間違った「考え方」)に他ならないのであります。

オス・メスの概念
“オスが好くてメスが悪い”という考え方が、わたしたち人間の錯覚だったのです。子供を生むことが出来ないオスだけに自他の区分け意識(差別意識)が生じるのに、オス社会がこれまでの常識の結果、わたしたち人間社会だけに差別・不条理・戦争という悲劇が繰り返されてきたのです。
好い・悪いというのは、自我意識(エゴ)にとっての好い・悪いという判断であって、本当の自分、つまり、全体観にとっては好い・悪いといった判断など一切ないのです。
自我意識(エゴ)は実現能力を一切持っていません。何故なら、自我意識(エゴ)とは、過去・現在・未来に「想い」を馳せる部分観に他ならないからです。
実現能力を持っているのは、『今、ここ』を生きる全体観であります。『今、ここ』を生きる全体観には自我意識(エゴ)が介入する余地はありません。
従って、成熟した自我意識(エゴ)で以って、『今、ここ』を断続的であっても生きる以外、わたしたち人間にとっての道はありません。
そのためには、“メスが好くてオスが悪い”とするコペルニクス的どんでん返しの考え方に変わらなければならないのです。
それがまさに、正しい概念(正しい「考え方」)に他なりません。
“オスが好くてメスが悪い”という考え方こそが、オス・メスの概念(オス・メスの間違った知識=オス・メスの間違った「考え方」)なのであります。
つまり、“子供を産むメスになりたくない”、つまり、“オスがグループのボスである”というメスの(不在)概念こそが、“オスが好くてメスが悪い”というオス・メスの概念(オス・メスの間違った知識=オス・メスの間違った「考え方」)に他ならないのであります。

善・悪の概念
“善が好くて悪が悪い”という考え方が、わたしたち人間の錯覚だったのです。
偽の善、つまり、偽善を善だとしてきたのがこれまでの常識の結果、わたしたち人間社会だけに差別・不条理・戦争という悲劇が繰り返されてきたのです。
本来、善とは悪の不在概念である偽善以外にないのであって、偽悪という言葉などないことが、悪が実在で善は悪の不在概念に過ぎない証左です。
好い・悪いというのは自我意識(エゴ)にとっての好い・悪いという判断であって、本当の自分、つまり、全体観にとっては好い・悪いといった判断など一切ないのです。自我意識(エゴ)は実現能力を一切持っていません。
何故なら、自我意識(エゴ)とは、過去・現在・未来に「想い」を馳せる部分観に他ならないからです。実現能力を持っているのは、『今、ここ』を生きる全体観であります。『今、ここ』を生きる全体観には自我意識(エゴ)が介入する余地はありません。
従って、成熟した自我意識(エゴ)で以って、『今、ここ』を断続的であっても生きる以外、わたしたち人間にとっての道はありません。
そのためには、“悪が好くて善が悪い”とするコペルニクス的どんでん返しの考え方に変わらなければならないのです。
それがまさに、正しい概念(正しい「考え方」)に他なりません。
“善が好くて悪が悪い”という考え方こそが、善・悪の概念(善・悪の間違った知識=善・悪の間違った「考え方」)なのであります。
つまり、“悪くなりたくない”、つまり、“偽善”という悪の(不在)概念こそが、“善が好くて悪が悪い”という善・悪の概念(善・悪の間違った知識=善・悪の間違った「考え方」)に他ならないのであります。
強・弱の概念
“強が好くて弱が悪い”という考え方が、わたしたち人間の錯覚だったのです。
弱者を罪悪視してきたのがこれまでの常識の結果、わたしたち人間社会だけに差別・不条理・戦争という悲劇が繰り返されてきたのです。自然(宇宙)は、柔らかい(弱い)ものを主役にし、硬い(強い)ものを脇役にすることを本分としています。硬い(強い)岩は、柔らかい(弱い)水によって削り取られやがて消滅します。柔らかい(弱い)水は、高い処から低い処へ必ず下がっていきますが、わたしたち人間だけが上昇志向を好いものだと勘違いしています。
好い・悪いというのは、自我意識(エゴ)にとっての好い・悪いという判断であって、本当の自分、つまり、全体観にとっては好い・悪いといった判断など一切ないのです。自我意識(エゴ)は実現能力を一切持っていません。
何故なら、自我意識(エゴ)とは、過去・現在・未来に「想い」を馳せる部分観に他ならないからです。実現能力を持っているのは、『今、ここ』を生きる全体観であります。『今、ここ』を生きる全体観には自我意識(エゴ)が介入する余地はありません。
従って、成熟した自我意識(エゴ)で以って、『今、ここ』を断続的であっても生きる以外、わたしたち人間にとっての道はありません。
そのためには、“弱が好くて強が悪い”とするコペルニクス的どんでん返しの考え方に変わらなければならないのです。
それがまさに、正しい概念(正しい「考え方」)に他なりません。
“強が好くて弱が悪い”という考え方こそが、強・弱の概念(強・弱の間違った知識=強・弱の間違った「考え方」)なのであります。
つまり、“弱くなりたくない”という弱の(不在)概念こそが、“強が好くて弱が悪い”という強・弱の概念(強・弱の間違った知識=強・弱の間違った「考え方」)に他ならないのであります。

賢・愚の概念
“賢が好くて愚が悪い”という考え方が、わたしたち人間の錯覚だったのです。
愚者を罪悪視してきたのがこれまでの常識の結果、わたしたち人間社会だけに差別・不条理・戦争という悲劇が繰り返されてきたのです。人間の歴史は、強者を支配者にし、強者に賢者が与し、弱者である被支配者を奴隷にしてきた。
孔子が支配者に与してきた賢者であり、世間から隔絶されて生きてきた老子を愚者としてきた。アリストテレスが支配者・アレキサンダーに与してきた賢者であり、世間から隔絶されたディオゲネスを愚者としてきた。
ところが、支配者側であり賢者である筈の孔子やアリストテレスは、乞食同然の愚者である筈の老子やディオゲネスを恐れていた。
好い・悪いというのは、自我意識(エゴ)にとっての好い・悪いという判断であって、本当の自分、つまり、全体観にとっては好い・悪いといった判断など一切ないのです。自我意識(エゴ)は実現能力を一切持っていません。
何故なら、自我意識(エゴ)とは、過去・現在・未来に「想い」を馳せる部分観に他ならないからです。実現能力を持っているのは、『今、ここ』を生きる全体観であります。『今、ここ』を生きる全体観には自我意識(エゴ)が介入する余地はありません。
従って、成熟した自我意識(エゴ)で以って、『今、ここ』を断続的であっても生きる以外、わたしたち人間にとっての道はありません。
そのためには、“愚が好くて賢が悪い”とするコペルニクス的どんでん返しの考え方に変わらなければならないのです。
それがまさに、正しい概念(正しい「考え方」)に他なりません。
“賢が好くて愚が悪い”という考え方こそが、賢・愚の概念(賢・愚の間違った知識=賢・愚の間違った「考え方」)なのであります。
つまり、“愚かになりたくない”という愚の(不在)概念こそが、“賢が好くて愚が悪い”という賢・愚の概念(賢・愚の間違った知識=賢・愚の間違った「考え方」)に他ならないのであります。

貧・富の概念
“富が好くて貧が悪い”という考え方が、わたしたち人間の錯覚だったのです。
蓄積の概念を生んだ農耕社会が、持つ者、つまり、富める者と、持たざる者、つまり、貧しい者という貧・富の概念を生み、富める者=善者=強者=オス(男)=賢者=支配者、貧しい者=悪者=弱者=メス(女)=愚者=被支配者という二層構造の社会をつくった結果、わたしたち人間社会だけに差別・不条理・戦争という悲劇が繰り返されてきたのです。農耕社会が出現する以前の狩猟社会、つまり、自然社会では、糧は今日の糧しかなく明日の糧はないのが、当たり前の全員が持たざる者、つまり、貧しい者で成立していた。人間社会だけにある持つ者、つまり、富の概念など、自然(地球)社会には一切なく、全員が持たざる者、つまり、貧が実在であるのです。好い・悪いというのは、自我意識(エゴ)にとっての好い・悪いという判断であって、本当の自分、つまり、全体観にとっては好い・悪いといった判断など一切ないのです。自我意識(エゴ)は実現能力を一切持っていません。何故なら、自我意識(エゴ)とは、過去・現在・未来に「想い」を馳せる部分観に他ならないからです。
実現能力を持っているのは、『今、ここ』を生きる全体観であります。『今、ここ』を生きる全体観には自我意識(エゴ)が介入する余地はありません。
従って、成熟した自我意識(エゴ)で以って、『今、ここ』を断続的であっても生きる以外、わたしたち人間にとっての道はありません。
そのためには、“貧が好くて富が悪い”とするコペルニクス的どんでん返しの考え方に変わらなければならないのです。
それがまさに、正しい概念(正しい「考え方」)に他なりません。
“富が好くて貧が悪い”という考え方こそが、貧・富の概念(貧・富の間違った知識=貧・富の間違った「考え方」)なのであります。
つまり、“貧しくなりたくない”という貧の(不在)概念こそが、“富が好くて貧が悪い”という貧・富の概念(貧・富の間違った知識=貧・富の間違った「考え方」)に他ならないのであります。

幸・不幸の概念
“幸福が好くて不幸が悪い”という考え方が、わたしたち人間の錯覚だったのです。幸福とは、一体どんな状態なのか。病気でない状態・貧乏でない状態・悩みのない状態・・・いわゆる四苦八苦のない状態、つまり、「・・・のない状態」を幸福と言うのです。「・・・のない状態」の「・・・」は不幸な事柄です。
畢竟、幸福とは、実体などなく、不幸の不在概念に過ぎません。好い・悪いというのは、自我意識(エゴ)にとっての好い・悪いという判断であって、本当の自分、つまり、全体観にとっては好い・悪いといった判断など一切ないのです。自我意識(エゴ)は実現能力を一切持っていません。
何故なら、自我意識(エゴ)とは、過去・現在・未来に「想い」を馳せる部分観に他ならないからです。実現能力を持っているのは、『今、ここ』を生きる全体観であります。『今、ここ』を生きる全体観には自我意識(エゴ)が介入する余地はありません。
従って、成熟した自我意識(エゴ)で以って、『今、ここ』を断続的であっても生きる以外、わたしたち人間にとっての道はありません。
そのためには、“不幸が好くて幸福が悪い”とするコペルニクス的どんでん返しの考え方に変わらなければならないのです。
それがまさに、正しい概念(正しい「考え方」)に他なりません。
“幸福が好くて不幸が悪い”という考え方こそが、幸・不幸の概念(幸・不幸の間違った知識=幸・不幸の間違った「考え方」)なのであります。
つまり、“不幸になりたくない”という不幸の(不在)概念こそが、“幸福が好くて不幸が悪い”という幸・不幸の概念(幸・不幸の間違った知識=幸・不幸の間違った「考え方」)に他ならないのであります。

天国・地獄の概念
“天国が好くて地獄が悪い”という考え方が、わたしたち人間の錯覚だったのです。天国とは、一体どんなところなのか。病気のないところ・貧乏のないところ・悩みのないところ・・・いわゆる四苦八苦のないところ、つまり、「・・・のないところ」を天国と言うのです。「・・・のないところ」の「・・・」は地獄のところです。畢竟、天国とは、実体などなく、地獄の不在概念に過ぎません。好い・悪いというのは、自我意識(エゴ)にとっての好い・悪いという判断であって、本当の自分、つまり、全体観にとっては好い・悪いといった判断など一切ないのです。自我意識(エゴ)は実現能力を一切持っていません。
何故なら、自我意識(エゴ)とは、過去・現在・未来に「想い」を馳せる部分観に他ならないからです。
実現能力を持っているのは、『今、ここ』を生きる全体観であります。『今、ここ』を生きる全体観には自我意識(エゴ)が介入する余地はありません。
従って、成熟した自我意識(エゴ)で以って、『今、ここ』を断続的であっても生きる以外、わたしたち人間にとっての道はありません。
そのためには、“地獄が好くて天国が悪い”とするコペルニクス的どんでん返しの考え方に変わらなければならないのです。
それがまさに、正しい概念(正しい「考え方」)に他なりません。
“天国が好くて地獄が悪い”という考え方こそが、天国・地獄の概念(天国・地獄の間違った知識=天国・地獄の間違った「考え方」)なのであります。
つまり、“地獄に行きたくない”という地獄の(不在)概念こそが、“天国が好くて地獄が悪い”という天国・地獄の概念(天国・地獄の間違った知識=天国・地獄の間違った「考え方」)に他ならないのであります。

神・悪魔の概念
“神が好くて悪魔が悪い”という考え方が、わたしたち人間の錯覚だったのです。
神とは、一体何なのか。ある人間の神の御加護の話が神・悪魔が表裏一体の関係であることを如実に表わしています。“彼は友人と一緒に旅をしていた。
ある朝10時にその友人と一緒に車で出かける約束をしていた彼は、寝坊をして10時を過ぎてもホテルの部屋で寝ていた。寝坊をした原因は、彼の腕時計が故障して止まっていたからだ。その腕時計は、若くして亡くなった彼の兄の時計だった。約束をすっぽかされ、仕方なく独りで出かけた友人の乗った車が事故に遭遇して、その友人は大怪我をした。その報を聞いた彼は、亡き兄の霊が御加護してくれたのだと信じるようになった。”
しかし、事故に遭遇して大怪我をした友人やその家族たちにとって、彼を加護した彼の兄の霊は神どころか悪魔以外の何者でもありません。
全知全能の神ならば、その友人をも加護してくれる筈ではないかと思う筈です。
神(霊)の御加護など、所詮、個人の都合の産物、つまり、御利益に過ぎないのです。他人にとっては悪魔でも、自分さえ好かったらいい神なのです。
病気から解放してくれるもの・貧乏から解放してくれるもの・悩みから解放してくれるもの・・・いわゆる四苦八苦から解放してくれるもの、つまり、「・・・から解放してくれるもの」を神と言うのです。「・・・から解放してくれるもの」の「・・・」は悪魔のことです。畢竟、神とは、実体などなく、悪魔の不在概念に過ぎません。好い・悪いというのは、自我意識(エゴ)にとっての好い・悪いという判断であって、本当の自分、つまり、全体観にとっては好い・悪いといった判断など一切ないのです。自我意識(エゴ)は実現能力を一切持っていません。何故なら、自我意識(エゴ)とは、過去・現在・未来に「想い」を馳せる部分観に他ならないからです。実現能力を持っているのは、『今、ここ』を生きる全体観であります。『今、ここ』を生きる全体観には自我意識(エゴ)が介入する余地はありません。
従って、成熟した自我意識(エゴ)で以って、『今、ここ』を断続的であっても生きる以外、わたしたち人間にとっての道はありません。
そのためには、“悪魔が好くて神が悪い”とするコペルニクス的どんでん返しの考え方に変わらなければならないのです。
それがまさに、正しい概念(正しい「考え方」)に他なりません。
“神が好くて悪魔が悪い”という考え方こそが、神・悪魔の概念(神・悪魔の間違った知識=神・悪魔の間違った「考え方」)なのであります。
つまり、“悪魔に縛られたくない”という悪魔の(不在)概念こそが、“神が好くて悪魔が悪い”という神・悪魔の概念(神・悪魔の間違った知識=神・悪魔の間違った「考え方」)に他ならないのであります。

健康・病気の概念
“健康が好くて病気が悪い”という考え方が、わたしたち人間の錯覚だったのです。健康とは、一体何なのか。病気のない状態を健康と言うだけであります。
病気がなければ健康もありません。病気があってはじめて健康の有り難さがわかるのです。一生病気になったことのない人には健康の有り難さなどわからないのです。癌でない状態・心筋梗塞でない状態・糖尿病でない状態・・・風邪でない状態、つまり、「・・・でない状態」を健康と言うのです。「・・・のない状態」の「・・・」は病気です。畢竟、健康とは、実体などなく、病気の不在概念に過ぎません。好い・悪いというのは、自我意識(エゴ)にとっての好い・悪いという判断であって、本当の自分、つまり、全体観にとっては好い・悪いといった判断など一切ないのです。自我意識(エゴ)は実現能力を一切持っていません。何故なら、自我意識(エゴ)とは、過去・現在・未来に「想い」を馳せる部分観に他ならないからです。実現能力を持っているのは、『今、ここ』を生きる全体観であります。『今、ここ』を生きる全体観には自我意識(エゴ)が介入する余地はありません。
従って、成熟した自我意識(エゴ)で以って、『今、ここ』を断続的であっても生きる以外、わたしたち人間にとっての道はありません。
そのためには、“病気が好くて健康が悪い”とするコペルニクス的どんでん返しの考え方に変わらなければならないのです。
それがまさに、正しい概念(正しい「考え方」)に他なりません。
“健康が好くて病気が悪い”という考え方こそが、健康・病気の概念(健康・病気の間違った知識=健康・病気の間違った「考え方」)なのであります。
つまり、“病気になりたくない”という病気の(不在)概念こそが、“健康が好くて病気が悪い”という健康・病気の概念(健康・病気の間違った知識=健康・病気の間違った「考え方」)に他ならないのであります。

支配・被支配の概念
“支配が好くて被支配が悪い”という考え方が、わたしたち人間の錯覚だったのです。蓄積の概念を生んだ農耕社会が、持つ者、つまり、富める者と、持たざる者、つまり、貧しい者という貧・富の概念を生み、富める者=善者=強者=オス(男)=賢者=支配者、貧しい者=悪者=弱者=メス(女)=愚者=被支配者という二層構造の社会をつくった結果、わたしたち人間社会だけに差別・不条理・戦争という悲劇が繰り返されてきたのです。
支配・被支配(支配する者・支配される者)が差別・被差別(差別する者・差別される者)をつくったのです。
支配・被支配(支配する者・支配される者)が不条理・被不条理(不条理をする者・不条理をされる者)をつくったのです。
支配・被支配(支配する者・支配される者)が戦争・被戦争(戦争をする者・戦争をされる者)をつくったのです。
畢竟、支配とは、実体などなく、被支配の不在概念に過ぎません。
好い・悪いというのは、自我意識(エゴ)にとっての好い・悪いという判断であって、本当の自分、つまり、全体観にとっては好い・悪いといった判断など一切ないのです。自我意識(エゴ)は実現能力を一切持っていません。
何故なら、自我意識(エゴ)とは、過去・現在・未来に「想い」を馳せる部分観に他ならないからです。実現能力を持っているのは、『今、ここ』を生きる全体観であります。『今、ここ』を生きる全体観には自我意識(エゴ)が介入する余地はありません。
従って、成熟した自我意識(エゴ)で以って、『今、ここ』を断続的であっても生きる以外、わたしたち人間にとっての道はありません。
そのためには、“被支配が好くて支配が悪い”とするコペルニクス的どんでん返しの考え方に変わらなければならないのです。
それがまさに、正しい概念(正しい「考え方」)に他なりません。
“支配が好くて被支配が悪い”という考え方こそが、支配・被支配の概念(支配・被支配の間違った知識=支配・被支配の間違った「考え方」)なのであります。
つまり、“奴隷になりたくない”、“差別されたくない”、“不条理な目に遭いたくない”、“戦争に行きたくない”という被支配(被差別・被不条理・被戦争)の(不在)概念こそが、“支配が好くて被支配が悪い”、“差別が好くて被差別が悪い”、“不条理が好くて被不条理が悪い”、“戦争が好くて被戦争が悪い”という支配(差別・不条理・戦争)・被支配(被差別・被不条理・被戦争)の概念[支配(差別・不条理・戦争)・被支配(被差別・被不条理・被戦争)の間違った知識=支配(差別・不条理・戦争)・被支配(被差別・被不条理・被戦争)の間違った「考え方」]に他ならないのであります。
差別・不条理・戦争は、差別する者と差別される者、不条理をする者と不条理をされる者、戦争をする者と戦争をされる者に区分けされているだけだった。
戦争は、自国家の為、自国民の為に為されてきたのではなく、一部支配者の為、一部差別をする者の為、一部不条理をする者の為、一部戦争をする者の為に為されてきたのです。
人間社会の実相は、国家や社会や会社や家族などあったわけではなく、支配する者と支配される者の二層構造があっただけです。
今こそわたしたちは、そのことに気づかなければなりません。