第二十一章 目覚めよ!人間!

どうしようもない生き物
病気とは健康のための病気である。
病気の実相がここにあります。
健康の幻想がここにあります。
ところが、わたしたち人間は幻想を追い掛け、実相を忌み嫌う。
病気とは健康のための病気であるのに、病気を忌み嫌っては健康には絶対になれない。
幸福を追い掛け、不幸を忌み嫌う。
不幸とは幸福のための不幸であるのに、不幸を忌み嫌っては幸福には絶対になれない。
富を追い掛け、貧を忌み嫌う。
貧乏はお金持ちのための貧乏なのに、貧乏を忌み嫌ってはお金持ちには絶対になれない。
天国を追い掛け、地獄を忌み嫌う。
地獄は天国のための地獄であるのに、地獄を忌み嫌っては天国には絶対に行けない。
神を追い掛け、悪魔を忌み嫌う。
悪魔は神のための悪魔であるのに、悪魔を忌み嫌っては神は絶対にやって来ない。
そして、
死とは生のための死である。
死の実相がここにあります。
生の幻想がここにあります。
ところが、わたしたち人間は幻想を追い掛け、実相を忌み嫌う。
死とは生のための死であるのに、死を忌み嫌っては充実した生を絶対に送れない。
『今、ここ』とは昨日・今日・明日のための『今、ここ』であるのに、『今、ここ』を忌み嫌っては昨日・今日・明日は絶対にやって来ない。
ところが、わたしたち人間は幻想(映像)である昨日・今日・明日を追い掛け、実相である『今、ここ』を避けて生きているのです。
どうしようもない生き物です。

人生とは宇宙旅行
幻想(映像)である昨日・今日・明日を追い掛け、実相である『今、ここ』を避けて生きている、どうしようもない生き物・人間。
昨日・今日・明日を時間だと捉えた結果であります。
昨日・今日・明日は時間ではなく、空間であったのです。
わたしたちは、時間と空間、つまり、時空間の世界(宇宙)などに存在していません。
わたしたちは、空間の世界(宇宙)、つまり、“静止の暗闇と沈黙の世界(宇宙)”に存在しているだけです。
ただ、『今』という汽車に乗って旅をしている。
つまり、“運動の光と音の世界(宇宙)”という汽車に乗って旅をしている。
それが人生に他ならない。
『今』という汽車こそ時間の正体、つまり、虚時間であります。
『今』という汽車の窓外に『ここ』という空間が存在する。
『今、ここ』の正体であります。
『ここ』は静止していて、『今』が運動しているのですが、『今』という汽車に乗って人生という旅をしている自分にとっては、自分が乗っている『今』が静止していて、『ここ』が運動しているように観える。
運動しているように観える『ここ』が昨日・今日・明日の正体に他ならない。
自分が乗っている地球が運動していて、天は静止しているのに、自分が静止していて、天が運動していると錯覚するのと同じ現象であります。
どうしようもない生き物・人間の錯覚の原点は、空間である昨日・今日・明日を時間と捉えたことにあるのです。
本当の時間とは『今』しかないのです。

現在と『今』
空間である昨日・今日・明日を時間と勘違いしているから、時間を空間の上位に置き、時間に支配される羽目に陥っているのです。
つまり、三次元空間の上に四次元時空間を置いているわけです。
空間を時間と勘違いしているのは、本来、静止しているものを運動しているものと捉える錯覚に他なりません。
汽車に乗っている自分が静止しているように観えて、窓外の光景が運動しているように観えるのと同じ錯覚であります。
汽車に乗っている自分が運動しているのであって、窓外の光景は静止しているのが実在であるのです。
運動している地球の上にいる自分が静止しているように観えて、天空が運動しているように観えるのと同じ錯覚であります。
運動している地球の上にいる自分が運動しているのであって、天空が静止しているのが実在であるのです。
まさに記憶を時間と勘違いしているのと同じであります。
記憶とは光景であり、音であり、匂いであり、味であり、肌触りであるのです。
ところがわたしたちは、記憶を過去、つまり、時間と捉えています。
だから、動画面映像を実在だと勘違いし、夢を現実と勘違いしているのです。
動いているものはすべて動画面映像に他ならない。
静止画フィルムが実在に他ならない。
静止画フィルムとは『今、ここ』のスナップ写真であり、一枚一枚のスナップ写真を重ねてパラパラ捲ることと、光を当てることで動画面映像が映されるわけで、現実と勘違いしている映画とは、まさに“運動の光と音の世界(宇宙)”である所以です。
昨日・今日・明日、つまり、過去・現在・未来を時間と捉えたことが間違いの元であったのです。
特に、今日、つまり、現在と『今』を同じだと思い込んでいるのが最大の錯覚であったのです。
今日、つまり、現在とは時間ではなく、窓外の光景に他ならないのです。
今日、つまり、現在と『今』とは量的違いではなく、質的違いであるのです。
死が実在であるのに、映像である生を実在と錯覚する原因がここにあるのです。
死とは映画の終わりに過ぎないのであります。

神の概念=時間の概念=死の概念
拙著「神はすぐ傍」で、人間が捏造した神の概念と時間の概念は実は同じものであったと述べました。
“Man is Space & God is Time”という英語のタイトルにしたように、わたしたち人間が空間であり、神が時間であるわけです。
そして、時間の概念こそ死の概念であった。
従って、
神の概念とは時間の概念であり死の概念に他ならなかった。
結局の処、すべて人間が勝手につくった考え方であり、自然や宇宙の世界にはまったく関係のない話だったわけです。
自然世界で生きている他の生き物たちにとって、神など無縁であり、時間など無縁であるから、死ぬことなど知らないのです。
時間の概念では、過去の出来事は既知、つまり、知っているが、未来の出来事は未知、つまり、知らない筈であります。
わたしたち生きている者にとって、死とは既知(過去)の出来事でなく、未知(未来)の出来事である筈なのに、既知の出来事と思い込んでいるのは明らかに自己矛盾であります。
つまり、時間の概念と死の概念は矛盾しているわけです。
その矛盾を自己矛盾にまで仕立て上げたのが神の概念に他ならなかったのです。
神の概念=時間の概念=死の概念と無理やりすることで、わたしたち人間ひとり一人の深い意識の中に自己矛盾をつくってしまったのです。
わたしたち人間だけが、悩みや苦、そして、死の恐怖に苛まれる原因は、この自己矛盾にあったのです。
一体誰がこんな自己矛盾を捏造したのかを検証するには、歴史を根本的に洗い直す必要があります。
しかし、自己矛盾という自縄自縛から解放することは自分独りだけでも出来ます。
神の概念=時間の概念=死の概念という自縛から自己を解放することです。

目覚めよ!人間!
人間自身が捏造した神の概念と時間の概念、そして、死の概念。
それらは実は同じものであった。
しかも、それらの概念が自然や宇宙の摂理と恰も符号するかのように決定づけたのが、アインシュタインの相対性理論であります。
アインシュタインの相対性理論こそ、神の概念=時間の概念=死の概念の罠に他ならなかった。
光を絶対者の地位に奉り、時間を人間の上位者に置き、人間にとって究極の課題である死を唯一解決できるのは神のみであるとしたのが相対性理論に他なりません。
まさに、神(光)の概念=時間の概念=死の概念であります。
人間が勝手に捏造した概念の問題解決は人間自身しか出来ません。
神のみが人間が勝手に捏造した概念の問題解決者だとするなら、神を捏造(創造)したのもまた人間であります。
神が天地創造者であり、人間は被造物の一つであるなら、他の生き物にとっても神は創造者である筈です。
しかし、他の生き物には、神の概念も、時間の概念も、死の概念も無縁です。
ローマのバチカン宮殿やメッカのカーバ神殿の前では、犬も畏れ多くて小便も我慢するなら、キリスト教やイスラム教の神は本物でしょうが、犬は平気でバチカン宮殿やカーバ神殿に小便を掛けるでしょう。
人間が勝手につくった概念で自然や宇宙を支配しようとする。
それが人間の歴史であったと言っても過言ではありません。
だからいまだに人間社会だけにしかない差別・不条理・戦争を繰り返しているのです。
もういい加減目覚めなければいけません。

目覚めの切り口
神の概念は人間によって捏造された。
時間の概念も人間によって捏造された。
だから、
死の概念が人間だけに生まれた。
“自分もいつか必ず死ぬ”
こんな自己矛盾は自然(地球)や宇宙の法則にはありません。
従って、
“自分は必ず死ぬ”と確信するなら死期が決定されていなければならない、つまり、自殺するしかないという(正しい)死の観念を持つと、時間の概念も(正しい)時間の観念を持つことになり、神の概念も(正しい)神の観念を持つようになります。
概念とは間違った観念である所以です。
観念とは正しい概念である所以です。
時間の概念とは、過去・現在・未来という水平的世界(量的物差しの世界)の時間のことで、わたしたちが所謂時間(実時間)と称しているものです。
時間の観念とは、『今、ここ』という垂直世界(質的物差しの世界)の時間のことで、所謂虚時間のことであります。
神の概念とは、水平的世界(量的物差しの世界)の神のことで、宗教という名の下の所謂擬人化された、人間社会だけ(部分観として)の神のことです。
神の観念とは、垂直世界(質的物差しの世界)の神のことで、信仰という名の下の所謂自然(地球)や宇宙との全体感のことであります。
神の概念=時間の概念=死の概念
この自己矛盾を突き破り目覚めるには、神の観念若しくは時間の観念若しくは死の観念の何れかを切り口にするしかありません。