第二章 国家のない社会

国家のない社会
最近、企業における不正・隠匿が大きな社会問題のひとつとしてよく取上げられています。
多くの企業が掲げている基本理念のなかには、殆どと言っていいほど「社会に貢献する」と言う類の言葉が入っています。
それにも拘わらず、嘗ては信用を第一の売り物にしていたはずの「大企業」と呼ばれるところから、俗に言う人間の醜さを象徴するような事件が多く発生しています。  
「大企業」の事件が世間に発覚するきっかけとなっているのは、殆どが内部からの告発によってであります。
この現象は、一体何を意味しているのでしょうか。
個人の思惑も幾分かはあるかもしれませんが、総じて言えば、人間としての良心がその行為を許さなかったのではないでしょうか。
現代資本主義社会、現代自由競争社会とはすべてが、「自分達さえ良ければいい」、「自分が一番大事」を原点に形作られているように思えて仕方がありません。
逆に言えば、「自分さえ良ければ・・・」という自我意識中心の人間の思考回路が、現代の社会から消滅し「みんなが良くならなければ、自分が良くなることなどあり得ない」、「自分自身のことより、まず全体のことが第一である」という思考回路に変換されたら、今の世の中はどのように変わっていくのでしょうか。
強制的に秩序を維持させようとする法律や不可解な各種規制といった、山のような決まりごとは必要なくなるでしょう。
『他人を困らせるようなことは一切しない』 
所有する者(持つ者)は無い者(持たない者)に分け与え、分け与えられたものは、他の者に何か自分が役に立てることを見出し、それを別の者に与える。それぞれが自分(達)の得意なことに磨きをかけ、世の中の役に立とうとする。
全体のことを考えることが出来れば、全体として無益な競争(戦争)はなくなる筈です。
自分の立場を守ろうとする意識延いては行為がなくなるのですから、富が一箇所に集中(滞留)してしまうこともなくなり、富の概念の象徴とも言うべき「お金」自体が持つ価値は一変してしまうでしょう。
更に、現代社会に蔓延る隠し事(秘密)というものすら、存在しなくなります。
隠し事が無くなれば、世の中(物事)の仕組みは非常にシンプル且つ透明性のある、分りやすいものになってくる筈です。
況してや、みんなが暮らしやすいように各人が自発的に行動するのですから、租税という制度も必要なくなってきます。
人間社会全体が自立した自由な個人の集まりになれば、現代社会を築いている国家制度という枠組みも自ずと消滅して、「国家あっての個人」から「個人あっての国家」へ変身するでしょう。
「自分さえ良ければ・・・」という《自我意識中心の個人の意識》が、「みんなが良くならなければ・・・」という《全体中心の個人の意識》に変換されることで、社会の構造、つまり、世の中が大きく変化していくのです。
対蹠的に言えば、制度、組織、国家という「枠組みの世の中」が、個人の自我意識を増長させ、頑強なものへと育て上げていったのだと言えるのではないでしょうか。
現代資本主義の申し子とも言うべき大企業の活動の中においても、コンプライアンス活動(企業活動の透明性)というものが、最近急激に注目されるようになって来ました。
企業内での個人の役割というものも、自社(企業)の中で何をするのかという観点から、自社(企業)に対して何が出来るのかという個人重視の風潮が明確に高まってきています。
我が国の政治に関する世論調査を見ても、国民不在の政局運営への不満は誰の目にも明らかに大きくなってきています。
「国家(組織)という枠組みあっての個人」から「個人あっての国家(組織)」へ。
我々は既に、新しい社会に向けて着実に歩み始めていることは間違いありません。

組織の崩壊(家族の崩壊)が既に始まっている
組織の最小単位である家族も、利益追求を至上とする大組織である国家や会社もすべて、お金の量が組織の絆を繋ぐ力であると錯覚してしまう現代社会の様相です。
子が親を殺し、親が子を殺すという事件が頻発しています。
古今東西の歴史は、子が親を殺すような国は必ず滅亡することを証明しています。
親が子を育てることは、動物社会のみならず植物の世界においても大切な本能です。
植物がおしべとめしべにより交配し種子を作ることは、日常何処にでも見ることができる現象です。
種を保存する為に次世代の種子を産み出し育てることは、種にとって最も重要な課題であるわけです。
家族とは人間という種を存続させる為の大切な仕組みです。
では、日本人という種を存続発展させる責任を負っている日本社会は、その責任を果たせる状況にあるでしょうか。
大企業という拝金組織で無機質な仕事をして疲れて帰ってくる亭主に家族サービスを迫る女房。
学校という自己保身過剰の無責任組織で自由第一・平等第一という支離滅裂な自己主張ゆとり教育を受け、言いたい放題、やりたい放題のバカ息子・娘たち。
居場所の無い亭主は酒を飲みながら、勝っても負けても自分に何の関係もない野球やサッカーに夢中になっている。
家族のひとり一人が自分自身の存在意義を無意識のうちに感じ、無意識の中で役割を果たし、無意識の中で他者を労わることを当たり前の習慣として持ち合わせていた風景は現代社会には最早見られません。
拝金主義化により、金の有無が絆になってしまっている家族の崩壊が既に始まっている。
組織の最小単位である家族の崩壊は、企業、社会、国家の崩壊を確実に予兆しています。

高度自由社会とは何か

誰にでも共通するというモノの価値を測る「ものさし」は、我々自身が確固たる「ものさし」を持っていないため、本質的な面では貨幣を利用し、共通性という面では他者の集団である組織を使ってきたわけであり、その行き着くところが現代拝金社会であったのです。
経済発展の歴史は、より効率的な組織の運営・維持の歴史であり、先進国が経済発展を遂げられたのは、人間の「知」を最大限に利用して来たためとも言えます。
その恩恵を多分に享受しているのが現代日本人であり、「知」に基づく社会を全面否定することは、現代では生活が出来ない様にも思われます。
「知」の行き着いた拝金主義社会の根幹をなす貨幣の特性は、貨幣そのものが価値を有する金・銀などによる本位貨幣ではなく、不換貨幣である紙幣が使用されています。
紙幣とは、それぞれの国の政府によって保証された「銀行券」であり、それ自体は何ら意味を持たないものであります。
つまり、国家に基づく信用だけで我々は貨幣を使用しているわけであり、国が倒れると貨幣も全く意味を有さないのです。
戦争が一度起これば紙屑と化すような、全幅の信頼を寄せるには余りにも心もとない存在です。
それなのに、実体を有さない貨幣に我々は日々右往左往させられているのです。
古代奴隷社会では、その名の通り奴隷と支配者。
中世社会では、奴隷の心の苦しみを解放するために機能していた宗教自体が権威となり、人々の精神的束縛を生み出していった状況。
近代社会では、人間の「知」に基づく客観性を重視する考えが、自然科学の発達による物質的な生活レベルの向上を齎した半面、国家や会社という組織が生まれ、持てる者と持たざる者の階級による利益社会が発現した状況。
古代、中世、そして近代という時代変遷において変わらないものは、支配と被支配の二層社会であるということです。
時代は変化しても、結局は古代の奴隷社会が基本となり、その延長線上に我々は生きているのです。
現代の支配者層は、極めて洗練された方法で我々一般大衆から掠め取っているため、なかなか目に見えにくいのは確かでありますが、少数の支配者と多数の被支配者という構図は何ら変わっていません。
高度自由社会とは、支配・被支配の二層構造がない、本当の自由で公正な社会であります。
高度自由社会に生きる者として求められるのは、現代の「ものさし」すなわち「価値尺度としての貨幣」や「他者の集団である組織」ではなく、新しい時代の「ものさし」である「自立」であります。
これまでの「貨幣の多寡」という実体のない「ものさし」からの脱却も意味するものです。
これからの社会では、いかなる国家であっても、いかなる人種であっても、いかなる経済状態であっても、同じ人間であるという公正な認識が極めて重要になってくるでしょう。
人が個人として自立し、他者との関係に左右されない独立した存在を志向するのが高度自由社会への入口であります。
高度自由社会を志向した個人は、国家あっての国民という考えから脱却し、国民あっての国家、更に言えば国家という概念のない社会へのドアをノックするでしょう。
組織の最大単位である国家が崩壊し、国家という概念のない社会へと移行するというのは、法律のない国家が発現することでもあります。
憲法や法律は、そもそも支配する者のためにあり、支配される者のためのものではないからです。