第十九章 死は随所にある

自己への懺悔
“死は突然襲って来る”。
“死は随所にある”証左であります。
しかし、わたしたち人間は愚かにも“死はいつか必ずやって来る”という支離滅裂な考え方に嵌り込んでいるのです。
“死は随所にない”なら、“死はいつかやって来るかも知れない”、若しくは“死は永遠にやって来ないかも知れない”の何れしかない筈で、“死はいつか必ずやって来る”ことは絶対にあり得ません。
“死は突然襲ってくる”ためには、死を常に内在していなければなりません。
“死は随所にある”、つまり、死が実在で、生は人間が勝手に捏造したその不在概念に過ぎない所以です。
“病気は突然襲って来る”。
病気を常に内在しているからです。
つまり、病気が実在で、健康は人間が勝手に捏造したその不在概念に過ぎない所以です。
“不幸は突然襲って来る”。
不幸を常に内在しているからです。
つまり、不幸が実在で、幸福は人間が勝手に捏造したその不在概念に過ぎない所以です。
従って、
“メスは突然襲って来る”。
メスを常に内在しているからです。
つまり、メスが実在で、オスは人間が勝手に捏造したその不在概念に過ぎない所以です。
“悪は突然襲って来る”。
悪を常に内在しているからです。
つまり、悪が実在で、善は人間が勝手に捏造したその不在概念に過ぎない所以です。
“弱は突然襲って来る”。
弱を常に内在しているからです。
つまり、弱が実在で、強は人間が勝手に捏造したその不在概念に過ぎない所以です。
“愚は突然襲って来る”。
愚を常に内在しているからです。
つまり、愚が実在で、賢は人間が勝手に捏造したその不在概念に過ぎない所以です。
“貧は突然襲って来る”。
貧を常に内在しているからです。
つまり、貧が実在で、富は人間が勝手に捏造したその不在概念に過ぎない所以です。
“地獄は突然襲って来る”。
地獄を常に内在しているからです。
つまり、地獄が実在で、天国は人間が勝手に捏造したその不在概念に過ぎない所以です。
“悪魔は突然襲って来る”。
悪魔を常に内在しているからです。
つまり、悪魔が実在で、神は人間が勝手に捏造したその不在概念に過ぎない所以です。
“被支配者は突然襲って来る”。
被支配者を常に内在しているからです。
つまり、被支配者が実在で、支配者は人間が勝手に捏造したその不在概念に過ぎない所以です。
ところが、わたしたち人間は、随所にある、つまり、自己に常に内在しているモノを否定し、自分たちが勝手に捏造したその不在概念に過ぎないモノを肯定しているのです。
知性を得たが故の分裂症生き物・人間の所以であります。
もういい加減、この考え方を変えなければ、わたしたち人間の明日はありません。

時間の無い世界・夢
わたしたち人間は、随所にある、つまり、自己に常に内在しているモノを否定し、自分たちが勝手に捏造したその不在概念に過ぎないモノを肯定している。
悩みや苦、そして、死の恐怖に苛まれる原因の分裂症状であります。
わたしたちが肯定している不在概念とは実在するモノの映像に他ならない。
メスが実在でオスは映像。
悪が実在で善は映像。
弱が実在で強は映像。
愚が実在で賢は映像。
貧が実在で富は映像。
不幸が実在で幸福は映像。
地獄が実在で天国は映像。
病気が実在で健康は映像。
悪魔が実在で神は映像。
被支配者が実在で支配者は映像。
そして、
死が実在で生は映像。
つまり、わたしたちの人生は映像に過ぎないのです。
この世に誕生した瞬間(とき)から、唯一のゴールである死に向かって行進する人生とは映像に過ぎないのです。
わたしたちは、死ぬために生まれてきたのであり、死ぬために生きているのであります。
わたしたちは、生きるために生まれてきたのではなく、生きた結果死ぬのでもありません。
そして、実在である死は随所にある。
まさに、宇宙の実在は“静止の暗闇と沈黙の絶対宇宙”であり、わたしたちが宇宙と信じ込んでいる137億光年の拡がりを持つ“運動の光と音の相対宇宙”はその映像に過ぎないのです。
まさに、静止が実在で、運動は映像に過ぎない。
まさに、静止は絶対静止で、運動は相対静止・運動に過ぎない。
まさに、死は絶対死で、生は相対死・生に過ぎない。
“死は随所にある”のです。
映像を現実だと勘違いし、実在の一瞥を夢と勘違いしているのであります。
夢である映画(動画面)の一瞥こそが静止画フィルムの一コマであります。
夢の中では時間が存在しない所以です。

夢と現実の違い
夢の中では存在しない時間とは、過去・現在・未来という水平世界の実時間であることは言うまでもありません。
従って、
夢の世界では、『今、ここ』という垂直世界の虚時間が存在する。
所謂現実と称する動画面(アニメーション)は運動する水平世界。
所謂夢と称する静止画フィルムの一コマは静止する垂直世界。
“いや!夢の中の世界は静止画面ではなく、動いている!”と反論される方が殆どでしょうが、残念ながら、夢は動画面(アニメーション)ではなく、静止画フィルムの一コマに過ぎません。
流れる(動く)実時間の存在しない世界では、動画面(アニメーション)はあり得ません。
映写機が回転していないのに、映画が映る訳がないのと同じ理屈であります。
若し、夢の中の世界が動画面(アニメーション)であるなら、流れる(動く)実時間が絶対存在している筈で、訳のわからない夢、唐突な夢、会ったこともない人物が登場する夢、時代を超えた夢・・・など絶対無く、目が覚めている時の所謂現実と何ら変わりはない筈です。
動くとは時間(実時間)の存在を前提としているからです。
夢が恰も動画面(アニメーション)のように錯覚するのは、目が覚めている時と同じように、夢の中でも五感(五観)が機能しているからに他なりません。
しかし、目が覚めている時のように、全五感(五観)がフル機能しているわけではありません。
結局の処、
目が覚めている場合と、眠っている場合の違いとは、五感(五観)の機能の程度差だけに過ぎず、所詮は映像の世界であるのです。
“死は随所にある”のです。