第十五章 諦観の世界

羯諦の世界
拙著「夢の中の眠り」では、人生を、映画を上映する劇場に喩えています。
その劇場には3階から5階までの鑑賞席がある。
3階は普段目が覚めている状態を象徴している。
5階は普段眠っている状態を象徴している。
毎日3階と5階を往復して、舞台の奥にある白いスクリーンに映っている映画を観ているのが人生ですが、3階と5階からは舞台の奥にある白いスクリーン、つまり、背景画面しか観えず、手前にある実舞台は観えない。
実舞台と背景画面の両方は、4階の鑑賞席からでないと観ることができないのに、わたしたちは3階と5階を往復するだけで、4階を素通りしてしまっている。
3階と5階を往復して鑑賞席から映画を観ているのが、複数いる偽者の自分である「私」、つまり、自我意識(エゴ)である。
3階から観る背景画面に映っている映画が所謂現実だ。
5階から観る背景画面に映っている映画が所謂夢だ。
目が覚めている時に観る所謂現実も、眠っている時に観る所謂夢も実は同じで、座っている自分の席が違うだけだ。
一方、実舞台で演じられている芝居を観ることができる4階の鑑賞席に座っているのが、唯一本当の自分である「わたし」、つまり、成熟した自我意識(エゴ)である。
4階の世界に気づいていないわたしたちは、毎日4階を素通りして3階と5階を往復して夢を観続けている。
それが、知性を得た人間の一生である。
拙著「(静止)宇宙論」第三部[絶対進化論]第四十九章[超絶対・相対性理論の世界」を以下紹介いたします。

「(静止)宇宙論」第三部[絶対進化論]第四十九章[超絶対・相対性理論の世界]
我々は時間という汽車に乗って人生という錯覚の旅をしている。
窓外には空間という景色が動いて観えるが、空間という景色は静止している。
時間という汽車が動いているから、空間という景色が恰も動いているように観えるだけだ。
舞台に掛かっている白いスクリーンに映っている映像(映画)が、窓外の景色である。
映写室にある静止画フィルムが実体(実在)であり、映画(動画)の正体に外ならない。
時間という汽車に乗っている自分が、鑑賞席で映画を鑑賞している本当の自分だ。
時間の『今』から、空間の『ここ』の連続体である過去・現在・未来を窓外に観ているのである。
運動宇宙とは時間から見た空間の世界のことだ。
映像宇宙とは時間から見た空間の世界のことだ。
相対宇宙とは時間から見た空間の世界のことだ。
静止宇宙とは空間の世界のことだ。
実在宇宙とは空間の世界のことだ。
絶対宇宙とは空間の世界のことだ。
超静止・運動宇宙とは汽車の中の自分独りだけの世界だ。
超実在・映像宇宙とは汽車の中の自分独りだけの世界だ。
超絶対・相対宇宙とは汽車の中の自分独りだけの世界だ。
死とは映写機が止まって(静止して)、映画が終わることだ。
鑑賞席に座っている本当の自分に死などない。
死んでいった者も、生きている者もみんな鑑賞席にずっと座っているのだ。
『今、ここ』を生きるとは、劇場の3階(現実の世界)と5階(眠りの中の世界)を日々往復しているニセモノの自分から、4階(映像世界であり、運動世界であり、相対世界という背景画面(スクリーン)と、実在世界であり、静止世界であり、絶対世界という実舞台の両方が見える超実在・映像世界であり、超静止・運動世界であり、超絶対・相対世界)の鑑賞席に座ることである。
死とは時間という汽車が駅に停車して(静止して)窓外の空間という景色が動画面から静止画面になることだ。
つまり、
死とは人生という錯覚の旅をしている時間という汽車から下車することに外ならない。
時間という汽車を下車した自分に死などない
『今、ここ』を生きるとは、窓のカーテンを閉じて、動いている時間という汽車の中で静止することだ。
結局の処、
超実在・映像宇宙であり、超静止・運動宇宙であり、超絶対・相対宇宙であり、『超静止・運動の超光・暗闇と超音・沈黙の宇宙』の超無限・有限宇宙である3(n)=3nの「超宇宙」の世界では生も死もないのであり、生も死もない世界こそ超絶対・相対性理論の世界に外ならない。

つまり、知性を得たわたしたち人間は、所謂現実も所謂夢も超えてゆかなければならない、つまり、眠りを超えた人生を送ることが使命に生きることに他ならないのであります。
「般若心経」の最後を締め括る言葉“羯諦(ぎゃーてい)”とは、眠りを“超えよ!”と示唆しているのであります。

怖くない死
わたしたちは、『今』という時間軸の汽車に乗って人生という錯覚の旅をしている。
窓外には、本来静止している『ここ』という空間軸の景色が動いているように観える。
錯覚とは、自分が動いていて景色が止まっているのに、恰も自分が止まっていて景色が動いているように観えることに他ならない。
この錯覚に気づき、人類に警鐘を鳴らした最初の人間がコペルニクスです。
自分たちが乗っている地球号という汽車が止まっていて窓外の景色である天が動いていると想い込んでいた当時の人間は、自分たちが乗っている汽車が実は動いていて窓外の景色が止まっていると主張したコペルニクスを気狂い扱いしたのです。
ところがおよそ500年経った現在では、コペルニクスの主張を気狂い扱いする人間は一人もいない筈なのに、依然500年前の人間と同じように、自分が動いていて景色が止まっているのに、恰も自分が止まっていて景色が動いていると錯覚しているのです。
『今』という時間軸の汽車に乗って、『ここ』という空間軸の景色を観ている。
まさに時間軸と空間軸は交差していない証左であり、アインシュタインの相対性理論とハイゼンベルグの不確定性原理では、ハイゼンベルグに軍配が上がるのです。
死ぬとは、『今』という時間軸の汽車から『ここ』という空間軸の景色(駅)に下車することに他なりません。
その時はじめて、自分(汽車)が止まっていて景色が動いていると想い込んできたことが錯覚で、実は自分(汽車)が動いていて景色は止まっていたことに気づくのです。
だから下車する、つまり、死ぬことができるのです。
死ぬことが怖いのは、自分(汽車)が止まっていて景色が動いていると錯覚していたからで、景色が止まっているなら下車(死)は怖くない筈です。
死を怖いと想い込んできたことは錯覚だったのです。
その錯覚から解放されるには、『今、ここ』の正体を理解することです。