第十四章 死の理解

突然の死 vs. 納得の死
死の概念とは、時間の概念に他ならない。
従って、時間の概念がなくなれば、死の概念もなくなります。
よくよく考えてみれば当たり前のことですが、死とは未だ来ぬ未来の出来事であり、『今、ここ』の出来事ではありません。
病死や事故死といった他殺の死は突然襲ってくるのがその証左です。
余命一年と医者から宣告されても、死は突然襲ってきます。
余命一ヶ月と医者から宣告されても、死は突然襲ってきます。
余命一日と医者から宣告されても、死は突然襲ってきます。
余命一時間と医者から宣告されても、死は突然襲ってきます。
余命一分と医者から宣告されても、死は突然襲ってきます。
余命一秒と医者から宣告されても、死は突然襲ってきます。
自分の命は自分で絶つ自殺以外の死、つまり、他殺による死は必ず突然襲ってきます。
自分の意志ではない死なのですから、突然襲ってくるのは当たり前です。
逆に言えば、自分の意志による死であれば、納得の死になります。
死が怖いのは、突然の死だからであり、納得の死ではないからに他なりません。
死自体が怖いのではありません。
予測不可能の突然だから怖いのです。
納得の死は自殺しかありません。

好い死=納得(満足)できる死
自我意識(エゴ)の一番の好物が、猜疑心と向上心(プライド)です。
つまり、過去と未来に想いを馳せることです。
自我意識(エゴ)の一番の苦手が、納得(満足)心です。
つまり、『今、ここ』を生きることです。
従って、成熟した自我意識(エゴ)とは納得(満足)心のことです。
納得するとは、何事も自分で決めることです。
つまり、自己完結能力です。
自我意識(エゴ)は実に狡猾で、何事も自分で決める振りをして実は絶対に自分で決めることはせず、他者に決定させ、責任を擦りつけます。
つまり、自己完結能力はゼロです。
この世的成功者は悉くこの一面を具えています。
この世的成功=この世的失敗の所以であります。
従って、目差すべき成熟した自我意識とは、何事にも納得(満足)し、何事も自分で決定することです。
つまり、独りの世界観を持つことであります。
自分だけが実在であり、他者はすべて映像であることを自覚することです。
自他の区分け意識が幼稚な自我意識(エゴ)であり、自分だけが実在であり、他者はすべて映像であることを自覚する意識が成熟した自我意識(エゴ)であります。
自我意識(エゴ)は突然の死を誘導します。
成熟した自我意識(エゴ)は納得(満足)の死を誘導します。
無意識は自然死を誘導します。
自然死と納得死(満足死)は自殺であります。
病死や事故死といった突然死は他殺であります。
人生最期の結論である死を好いものと捉えるには、納得(満足)できる死でなければなりません。
納得(満足)できる死あってこそ、納得(満足)できる生(人生)を送ることができるのであります。

『今』と『ここ』
自我意識(エゴ)が、『今、ここ』にいることを邪魔して、過去・現在・未来という時間に想いを馳せさせる。
四苦八苦の元凶であると仏教が云う煩悩とは、過去・現在・未来という時間に想いを馳せることに他なりません。
つまり、時間に振り回されているわけです。 
つまり、死に振り回されているわけです。
ところが、人間の知性たる所以は、時間の概念=死の概念を持ったことにあるのですから、今更、煩悩を断てと云われてもどうしようもありません。
自我意識(エゴ)を更に一歩前へ進めて、成熟した自我意識(エゴ)へ成長させるしか道はない。
生きている(動いている)限り、悟りとは程度(速度=運動量)の問題であって、ゴール(位置)の問題ではない。
『今、ここ』を生き切れと言われてもなかなかできない。
『今』という時間軸と『ここ』という空間軸は交差していない。
空間という三次元世界の上に時間という四次元要因が君臨するという、アインシュタインの相対性理論は明らかに間違っている。
若しそうなら、わたしたち人間はみんな『今、ここ』を生き切ることができ、悟りを開くことができる筈です。
『今』という時間軸と『ここ』という空間軸は交差していないから、『今、ここ』を生き切ることができない。
『今、ここ』を生き切っている他の生き物には時間の概念がない。
死=時間。
『今』と『ここ』の関係が究極の問題である。
“位置と運動量は同時に確定できない”、つまり、“動いているものの位置は決定できないし、止まっているものの速度は決定できない”と言う、ハイゼンベルグの不確定性原理がその真理をわたしたちに伝えているのです。

『今、ここ』と『今ここ』

『今』と『ここ』の問題は、水平(実時間)世界と垂直(虚時間)世界の問題であると言い換えてもいいでしょう。
水平(実時間)世界は量的であるのに対して、垂直(虚時間)世界は質的であります。
質的問題と量的問題を同じ世界観の中で考えているのが、錯覚の人生を送る原因の一つなのです。
拙著「夢の中の眠り」Chapter838[『今、ここ』と『今ここ』]を以下紹介いたします。

Chapter838 『今、ここ』と『今ここ』

量的尺度で計るのが相対性理論であります。
質的尺度で計るのが絶対性理論であります。
三次元(空間)世界の上に四次元(時空間)世界を置いたのが相対性理論であります。
三次元(量)世界の上に四次元(質*量)世界を置いたのが絶対性理論であります。
相対性理論とは運動理論であるのに対し、絶対性理論は静止理論である。
運動理論は運動する世界、つまり、誕生・生・死の生(円周)だけに通用する理論であるのに対し、静止理論は静止・運動の繰り返し動作、つまり、誕生(始点)・生(円周)・死(終点)すべてに通用する理論である。
アインシュタインは当初、相対性理論の構築において、宇宙を静止モデルとして考えていたが、運動モデル、つまり、膨張と収縮モデルに置き換えざるを得なくなったのは、相対性理論そのものが運動理論であったからです。
相対性理論の有名な方程式があります。
E=mC2
Gij=(8πG/C4)Tij
光の速度(C)を一定(Constant)、つまり、光を絶対者とした方程式は運動理論であって、静止(静止・運動)理論ではなかったのです。
ハイゼンベルグが発表した不確定性原理をアインシュタインが徹底的に排除しようとしたのは、相対性理論に真っ向から反対した理論であったからでしょう。
“動いているものの位置を確定することはできないし、静止しているものの運動量(速度)を確定することもできない”
ハイゼンベルグの不確定性原理の骨子でありますが、一般のわたしたちでも至極当たり前のことのように思います。
時間軸(運動軸)と静止軸(空間軸)は交差し得ないという意味であり、三次元空間軸の上に四次元時間軸を置くことはできないという意味でもあり、三次元空間の上に四次元時空間を置いた相対性理論を否定した理論であったからです。
敢えて理論的に述べると、過去・現在・未来という時間を、『今、ここ』の『ここ』という三次元空間の上に置いたため、わたしたちは過去・未来に思いを馳せる生き方になってしまったと言えるのです。
『今』という時間軸と『ここ』という空間軸が交差していないから、『今、ここ』であるのです。
『今』という時間軸と『ここ』という空間軸が交差しているなら、『今ここ』であります。
相対性理論は好いとこ取りの相対的一元論ですから『今ここ』であり、『今ここ』とは過去・現在・未来という時間に外なりません。
過去・未来という時間の物差しの目盛りは1秒・1分・1時間・1日・1ヶ月・1年ではなく、1秒前・1秒後、1分前・1分後、1時間前・1時間後、1日前・1日後、1ヶ月前・1ヶ月後、1年前・1年後のことであり、前と後が限りなく近づいた状態つまり極限値が現在でありますから、過去・現在・未来という時間は、前後の長短の尺度、つまり長い・短いという量的尺度の水平的時間、畢竟、『今ここ』という過去と未来が現在に収斂した極限値であります。
前後がない一息・一秒・一分・一時間・一日・一ヶ月・一年・一生こそが、『今、ここ』という水平時間軸(空間軸)と交差しない垂直時間軸との仮想交点であるのです。
わたしたちが時間と思ってきた(連想してきた)時間は、時間ではなく空間であったわけで、本当の時間とは、『今、ここ』の『今』であり、過去・現在・未来ではなかったのです。
記憶を時間と勘違いしているのは、まさしく、『今、ここ』の『今』を時間とせずに、過去・現在・未来を時間とした結果であります。
記憶の正体は空間(光景)であるように、過去・現在・未来の正体は時間ではなく空間(光景)であったのです。
連想によって生まれた過去・現在・未来という空間を時間と勘違いして、自分つまり実際の空間の上に君臨させた為に、悩まされる羽目に陥ったのが人間であります。
記憶は時間ではなく空間(光景)であることに気づくことで、過去・現在・未来も時間ではなく空間であることに気づくことが次のステップであります。

どうもわたしたちは、過去・現在・未来という空間を時間と勘違いしてきたようです。
『今』は垂直(虚時間)の質的世界であり、『ここ』が水平(実時間)の量的世界なのであります。