第十三章 自由自在な人生

死の形態
死をタブー視してきた人生。
自殺を罪悪視してきた人生。
この二つの罪意識は根が最も深い。
死の概念を持たないのが人間以外の生き物です。
“生も死もない”とする絶対一元論であります。
死は生に対立する要因だとするのがわたしたち人間の考え方です。
“生が好くて死が悪い”とする、好いとこ取りの相対一元論であります。
生と死は一枚のコインの裏表関係、つまり、補完関係にあるとする二元論の本質に気づくのが、わたしたち人間の進むべき次のステップです。
“生と死は同じで、死が本質であり、生は死の不在概念に過ぎない”とする、二元論の本質であります。
更に、“生と死を超える”、つまり、生死を一枚のコインとしか捉えず、表面の生や裏面の死を意識しないのが三元論であります。
そうしますと、生の実体と死の本質が見えてきて、死と自殺は実は一枚のコインに他ならなかったことに気づきます。
死とは自殺以外に無いのです。
死んだことがない、わたしたち生きている人間だけがそのことに気づいていないだけで、死んでいった人間はすべて死に際して気づかされて死んでいったのです。
輪廻転生説や死後の世界観はすべて騙りである証左でもあります。
“生きている者の気持ちは死んだ者にはわからないし、死んだ者の気持ちは生きている者にはわからない”のであります。
“生が好くて死が悪い”という好いとこ取りの相対一元論で生きているわたしたち人間は死んだ者の気持ちはわからないのに対し、死んだ者は生きたことと死んだことの両方を経験しているから、生きている者の気持ちも死んだ者の気持ちも両方わかっていて、生・死問題という一枚のコインの本質もわかっているが、残念ながら、死んだ者は生きているわたしたちに教えてくれない。
ところが、死んだ者の誰かが、わたしたち生きている者の誰かにだけ教えてくれることがあるらしく、逆に、わたしたち生きている者の誰かが生きながらにして、死んだ者の世界を訪問することができる結果、死んだ者の世界も知ることができるという宗教が、輪廻転生や死後の世界の考え方をまことしやかに人間の中に蔓延させ、誰もが死んだ者を弔う儀式を当然のごとく続けている。
他の生き物の世界にそんな儀式は一切ない。
どんな生き物でも自分が死ぬ時は、独りでひっそりと死んでゆく。
死とは自殺以外に無いのです。
“生も死もない”絶対一元論の他の生き物にとっての死とは自然死しかない。
“生と死は同じで、死が本質であり、生は死の不在概念に過ぎない”を理解し、更に、“生と死を超える”者にとっての死とは自殺以外に無いのです。

人間の使命
絶対一元論の世界は、自然と一体感の世界であります。
ただ死ぬだけの自己完結の自然死を体で知っている死の観念があるだけです。
相対二元論の世界は、自然の部分観の世界であります。
未だ来ぬ未来にある死を知る、つまり、“いつか自分も必ず死ぬ”という自己矛盾の死の概念が生まれた世界です。
絶対三元論の世界は、自然の部分観を経験した上で、自然との一体感を取り戻した全体観の世界であります。
“生も死もない”という絶対一元論の一体感から、“生が好くて死が悪い”好いとこ取りの相対一元論の部分観を経験して、“生と死は同じで、死が本質であり、生は死の不在概念に過ぎない”という相対二元論の本質を理解した部分観を経験して、“生と死を超える”という三元論の全体観に辿り着くのが、わたしたち人間の全体使命であり、部分使命でもあります。
絶対一元論→相対二元論→絶対三元論。
一体感→部分観→全体観。
一体感は、「在り方」一如の死を知らない世界感。
つまり、死期のわかった自然死の自殺の世界です。
部分観は、「在り方」と「考え方」の死を知った世界観。
つまり、病死や事故死といった突然死の他殺の世界です。
全体観は、「在り方」も「考え方」も超えた死を超えた世界観。
つまり、自分の命は自分で絶つ、死期を自分で決定する完全自殺の世界です。
知性の目差すべき世界観とは、使命を知る世界観に他なりません。

成熟した自我意識(エゴ)
使命とは、部分観と全体観が合致したときにその姿をはじめて現わすわけです。
絶対一元論の一体感では使命はありません。
使命観であって、使命感ではないのです。
知性の知性たる所以は全体観にあって、部分観である間は使命の姿は観えません。
言い換えれば、成熟した自我意識(エゴ)こそが使命観に他ならない。
“自分が・・・”という自我意識(エゴ)こそが諸悪の根源であり、自他の区分けから生じる差別・不条理・戦争も結局の処は自我意識(エゴ)の為せる業であり、支配・被支配二層構造と世襲・相続の差別制度も自我意識(エゴ)の為せる業であることは確かでありますが、死の概念を一度知った(持った)わたしたち人間が、自我意識(エゴ)を消滅させよと言われてもこれも土台無理な話であります。
『今、ここ』を生き切れと言われてもなかなかできないわけです。
何故なら、『今』という時間軸と『ここ』という空間軸は交差していないからです。
空間という三次元世界の上に時間という四次元要因が君臨するという、アインシュタインの相対性理論は明らかに間違っているのです。
若しそうなら、わたしたち人間はみんな『今、ここ』を生き切ることができ、悟りを開くことができる筈です。
『今』という時間軸と『ここ』という空間軸は交差していないから、『今、ここ』を生き切ることができないのです。
『今、ここ』を生き切っている他の生き物には時間の概念がありません。
結局の処、
死の概念とは、時間の概念に他ならない。
死=時間と言い切ってもいいかもしれません。
『今』と『ここ』の関係が究極の問題であると言い切ってもいいかもしれません。
“位置と運動量は同時に確定できない”、つまり、“動いているものの位置は決定できないし、止まっているものの速度は決定できない”と言う、ハイゼンベルグの不確定性原理が言い当てているのかもしれません。
使命を知るとは悟りを開くことであり、生きている(動いている)限り、悟りは程度(速度=運動量)の問題であって、ゴール(位置)の問題ではないのです。
そのためには、成熟した自我意識(エゴ)を目差すことしかないのです。