第九章 これからやってくる社会

現代拝金社会
政治家・役人の金にまつわる汚職をはじめとして、現代社会にはお金にまつわる事件・犯罪が蔓延り、こういった不祥事は枚挙に暇がありません。
逆の面から言えば、お金以上に大事なものを見出し得ないのが現代社会の特徴であり、正にお金が唯一無二の拠り所と言った様相を呈しています。
例えば、年金問題が非常に重要な政治問題となっていますが、これも行き過ぎたお金への執着、すなわち拝金主義への傾倒がベースにあるのです。
日本における拝金主義の極めつけはバブル経済期でした。
経済が永遠に右肩上がりの成長を続ける、という幻想が多くの日本人に支持され、その過程で、従来日本人が持っていた聖職の定義、そしてそれに対する尊敬の念という大事なものが、誰もがこの世的利益(金銭)を追い求める風潮の下、ほとんど失われてしまいました。
ではこうしたバブル経済が何故発生・破裂したかというと、1985年9月にニューヨークのプラザ・ホテルで開催されたG5(先進5か国蔵相・中央銀行総裁会議)によって合意されたドル安容認(日本側からすれば円高容認)いわゆるプラザ合意であり、その後、安いドルを避け、高い円を求めた世界の機関投資家が日本市場に殺到してマネーゲームに興じたのがバブル発生原因であります。
またバブル経済破裂原因は1989年の共産主義の崩壊に他なりません。
資本主義と共産主義はコインの裏表であり、一見対立するように見えても、実は共存することによって互いが成り立つ関係にある。
ところが共産主義が先に崩壊してしまい、世界市場が一本化されることで、それまでのインフレ基調の経済からデフレ基調の経済に変わってしまった結果、ひとり残された資本主義がバランスを崩したのが二十世紀末の失われた10年でした。
ところが多くの人々が、この歴史的必然に未だ気づかないまま、徐々に崩壊に向かう資本主義のいわば極致現象である拝金主義にどっぷり漬かったままでいるのが現代社会です。
すでに終わってしまった幻想にすがって生きている訳です。
世のため人のために尽くす、お金の代わりに人の尊敬をよしとするといったすぐれた精神的財産をバブル経済の中で失ってしまい、お金以外の価値観を見出せないまま、それにすがって生きている始末です。

拝金思想の変遷(1)
拝金主義というものは日本社会だけにある現象ではなく、その歴史は古く、相当根の深いものであります。
拝金主義思想とは、お金を唯一無二の価値基準とすることに他ならず、いわばお金を神格化している意味から一種の宗教と言えます。
人類が外敵から身を守るための方便として原始信仰が発生し、少数の支配者が多数の被支配者、つまり、奴隷を支配するための方便へとその後変わって行きます。
やがて、奴隷を精神的に救う(現実的な解放ではない)ための手立てとして、キリスト教が発生しますが、これが大きな社会的広がりを持った結果、いわゆる中世社会が一千年続くことになります。
この間、教会の権威の下、お金を儲けることは悪とされて、よりよい生活をしたいという人々の要求は抑えられてきました。
そして、ルネッサンス・宗教改革が起こり、キリスト教の中にも利潤を得ることは神の教えに反しない、というような説が生まれて、それまで抑圧されてきた人々の物質的欲望が解放されます。
この動きが近代哲学思想と結びつき、産業革命を経て、資本主義社会が成立し現在に至る訳です。
ここで着目すべきことは、中世社会から近代社会への変遷の中で、利益追求・お金儲けの位置付けが180度変った点です。
ルネッサンスの特徴は人間性の解放ですが、それは同時に物質的欲望の追求を認めることでもあります。
利潤追求の欲求が猛烈に拡大する中で競争原理が働いて、その手法はより徹底化されていきます。
他の価値観は次第に駆逐され、お金が唯一無二の価値基準に到ったのが現代社会です。
拝金主義思想が一種の宗教だとする所以です。
平たく言えばお金が神様になってしまった訳です。

拝金思想の変遷(2)
拝金主義を如実に表しているのが現在の新興宗教の氾濫でしょう。
雨後の筍のように新しい宗教が生まれ栄えますが、いずれも現世利益を謳って信者を集め、お金を集めています。
集金マシーンとしての宗教であり、神の教えを説くこととお金集めがイコールである状態は、お金が神様という現実を如実に表している。
しかし、見落としてはいけない点があります。
拝金主義は資本主義の末期的症状であり、人間の尊厳を貶める思想に他なりませんが、一方でそれは必然であるという事です。
中世社会は神が唯一絶対の存在価値であり、宗教が支配する社会です。
中世社会を否定する形で現れた近代社会は、お金儲けが最も重要であり、拝金思想が価値基準になるのは必然です。
近代社会が中世社会を否定したのは、宗教支配の矛盾が膨らみ、人々の不満の高まりによるものです。
翻って現代社会はどうでしょうか。
多くの人は依然気付いてはいませんが、資本主義思想は確実に疲弊しており、お金に振り回される現実に傷つき、何かおかしいと感じる人が着実に増えています。
今は中世末期と同じような状態にあるのです。
やがてこうした人々の新しい時代を求める動きが高まり、大きなエネルギーのうねりとなって、近代社会の終焉、そして新社会への移行へと導く筈です。
現代拝金主義社会は、新時代到来に際しての産みの苦しみであり、避けては通れない段階なのです。
我々がすべきことはこの点をよく認識した上で、表面的な事象に惑わされること無く、次の社会のあり方を描く必要があります。

お金のない社会
現代人が崇め奉ってやまないお金。
物質文明の進化と共に、人間がもつ欲望の殆どがこのお金によって解決されていくようになり、富の追求、拝金主義が現代社会に蔓延しています。
元来、お金=貨幣というものは、持ち運びに便利な物品との交換手段、延いては価値を計る尺度として用いられたものであり、古くは貝から始まり、銅、金銀へと移り変わっていきました。
交換手段であるがゆえに、それ自体が希少価値を持つものでした。
ところが、1971年のニクソンショック(金本位制度の実質撤廃)以降、現在の貨幣経済は価値を有する金銀貨幣(正貨)を使用せず不換貨幣が使用されています。
この不換価幣とは、それぞれの国の政府によって保証された「銀行券」であり、それ自体は何ら価値を持たないものです。
つまり国家に基づく信用だけで、我々は貨幣を使用しています。
しかしながらその信用とは、平和な世の中においてのみ存在するものであり、一旦戦争状態にでもなればたちまち消滅してしまう、非常に脆弱なものであるということに誰もが気付いていないのです。
況してや二十世紀後半から、貨幣は物の交換手段と価値の尺度という役割から、そのもの自体が商品となり、実体貨幣のみならぬ仮想貨幣(金融デリバティブ)が誕生し、既に実体貨幣を遥かに上回る量が人間同士の口約束のみで取引されています。
正に何の実体もないバブルを貪欲に追い求める現代人の富への欲望を考えると、富という概念が貨幣で以って表示されている限り、拝金社会から脱出することは不可能であり、貧富二元論世界の呪縛に苦しみ続けることになります。
富とは本来希少価値のあるものだったのです。
現代人が持つ富の概念は、貨幣という資本主義社会が織り成す実体のないものであり、貧富二元論的概念の究極ともいうべき拝金主義からの脱却はこの概念を超える三元論的考え方を生む社会、すなわちお金のない社会の構築にこそあるといえます。
人類の歴史を辿れば、貧富二元論的概念がないのが一元論的原始社会でした。
貧富二元論的概念が生まれたのがゲゼルシャフト(利益社会)であり、その極致に拝金主義がありました。
この貧富二元論的概念を超えた三元論的考え方が生む新しい社会の富の(ものさし)はやはり、量の(ものさし)から質の(ものさし)によるものでなければならないはずです。
これまで、あらゆる価値の尺度はお金の量という(ものさし)で計られてきました。
新しい社会の価値の尺度は、人間の心の質−古来、徳力が心の質を計る尺度になっていました−によって計られるようになるはずです。
いわば、本物の時代がやってくるのです。

価値の本質
お金は単なる紙切れであり、お金があったとしてもそれを食べることも出来なければ、それだけで寒さを凌ぐことも出来ません。
お金が無くなったとしても、米はある、野菜はある、パンもある、雨がふれば傘でしのぐことも出来る、その気になれば今より広い家にも住むことが出来るかもしれません。
逆に、お金というものが巾を利かしている為に、理不尽なことのほうが多い世の中になっている。
多くのことを学びたいと思っても、お金を持っていなければ学校に通うことが出来ない、どんなに横柄な態度で偉そうに言われても自社商品を買って頂いたお客様であればお礼を言わなければならない、一生懸命働いても何もしていないオーナーに儲けをピン撥ねされもっと稼げと奴隷のように扱われる。
同じ事をしたとしても、お金を持っている人間と、持っていない人間とは扱い方が違ってくる、お金を持っている人間が豪華な生活をしていたら「さすがだ、ふさわしい」と持てはやし、その人間の本質も知らないのに憧れを抱く、お金を持っていない人間がちょっと贅沢をすると「身の程知らず」と冷笑する。
たまたま豊かな国に生まれただけの若者が海外旅行に出かけ、他国で自分達の非常識を恥ずかしげもなく撒き散らし、たまたま貧しい国に生まれたばかりにどんなに努力をしても、生きていくのが精一杯の暮らしで一生を終えていく。
拝金主義社会が如何に物事の本質を曇らせているか、真剣に考えるときが既にやってきています。
お金は人間を鈍感な生き物にしています。
お金に支配され、お金に恐怖感を抱いているのが現代拝金主義社会に塗れた人間なのです。
新しい社会の日の出に際し、先ずモノの本当の価値を判断できる能力を持つことが必要です。
全てのものの価値をお金でしか判断できない人間は、新しい社会では生きていくことが出来ず、モノの価値の本質を理解できる人間だけが新しい社会に招き入れられる。
既に、その選別作業がどこかで行われているのかもしれません。