第三章 現代のソドミー・日本人

超拝金主義の正体
“お金がすべてだ!”とみんな信じ込む超拝金主義のメカニズムを検証してみましょう。
1985年に発生したバブル経済以降、超拝金主義が日本に蔓延りはじめました。
“お金が欲しい!”と思う気持ちは、それまでにも、みんな持っていましたが、お金持ちになれるのは一握りの人間だけで、大多数の人間は貧しいということを、当時の日本人は理解していました。
ところが、戦後高度経済成長のお陰で、一億総日本人が中産階級の生活レベルになり、豊かさに慣れてきた。
日本人すべてが豊かになったように思えたわけです。
豊かさは更なる豊かさを求める。
一億総日本人が、お金持ちになれると勘違いしはじめたのです。
超拝金主義の誕生です。
お金というものは湧いてくるものではありません。
お金というものは人間がつくったもので、総量は定まっていて、総量の中での奪い合いが為される結果、多く持つ者と少なく持つ者に分かれていくわけですが、多く持つ者の数は少なく、少なく持つ者の数は多くなるのは必定です。
お金持ちの数は少なく、貧乏の数が多くなるのは必定です。
円というお金を持っている日本人の中でも、お金持ちの数は少なく、貧乏の数が多くなるのは必定です。
日本人すべてがお金持ちになれるわけがないのに、すべての日本人がお金持ちを目差すのが、超拝金主義の正体なのです。
“欲は際限がない”
人間だけに当て嵌る真理です。
自然社会の中で生きているものが持ち具えている欲には際限があります。
二大本能欲である食欲と性欲の本質は際限があるということです。
現に、彼らは余計な食事はしないし、余計なセックスもしません。
余計な食事やセックスをしているのは人間だけです。
その結果、人間の数だけが異常に増えてしまった。
バブル経済が超拝金主義を生んだ直接の原因でしょうが、根本的な原因は、人間の数が異常に増えたことにあります。
人間の数が異常に増えた結果、超拝金主義は成るべくして成ったのです。
超拝金主義という現象は、“自分さえ好ければいい”という極端な利己主義の表われに他なりません。
“自分さえよければいい”という極端な利己主義的考え方が、ひとり一人の人間に土台不可能な望みを持たせることになるからです。
“自分だけが他人を出し抜いてでも好くなりたい”と全員が思っているわけです。
それは、人間の数があまりにも増え過ぎた結果、適正な分配ができなくなるからです。
超拝金主義の正体は異常に増え過ぎた人間の数にあるのです。

日本人のアイデンティティー(日本人意識)喪失
1985年のバブル経済発生以降、日本人は個性を極端に失っていきました。
元々が島国の農耕民族の日本人は、村八分にされることを極端に嫌う、没個性民族でしたが、それでも戦前の日本人は多少の個性がありました。
戦後、徹底した日本人のアイデンティティー(日本人意識)喪失を図ったアメリカの占領政策が効を奏しはじめたのが、1985年のバブル経済発生以降とも言えます。
民族のアイデンティティー喪失は国家の消滅を誘導することは、過去の歴史が証明しています。
太平洋戦争後、日本人のアイデンティティーが喪失しなかったのは、冷戦のお陰であることは間違いありません。
ドイツにおいても、朝鮮半島においても、冷戦が幸運と悲劇のコインの裏表となって、ドイツ人や朝鮮人のアイデンティティーが保たれたのは、まさに、冷戦の不幸中の幸いと言っても過言ではありません。
日本列島は分割されなかった分、ドイツや朝鮮半島が蒙ったような悲劇はなかった。
その分、後で付けが回ってきた。
その付けが、1985年のバブル経済発生と日本人のアイデンティティー(日本人意識)喪失であったわけです。
1985年のバブル経済発生から1990年のバブル経済破裂、そして1990年代のいわゆる「失われた10年」は、まさに、日本人のアイデンティティー(日本人意識)喪失を図る病原菌の潜伏期間であったわけです。
そして一見、日本の景気が回復基調に入った2000年から、遂に日本人のアイデンティティー(日本人意識)喪失を図る病原菌が、その姿を現しはじめたのです。
つまり、二十一世紀に入って、日本人のアイデンティティー(日本人意識)喪失という病気が発病したのです。
では、日本人のアイデンティティー(日本人意識)喪失という病気の症状はどんな形で顕れたのでしょうか。
(1) 超拝金主義・・・・・一億総日本人が“お金がすべてだ!”と信じる。
(2) いじめ現象・・・・・一億総日本人が“いじめられる”のを怖れる。
(3) 没個性現象・・・・・一億総日本人が“みんなで渡れば恐くない”。

これらの現象を示しているのが、日本人の運転マナーが画一化しだした点に如実に顕れています。
2000年以前は、日本人の運転マナーは地域性、職業性が顕著に顕れていました。
例えば、同じ関西地域でも、大阪や京都の運転マナーは極めて悪いのに対して、神戸のそれは極めて良いといった具合に地域性があった。
例えば、タクシーやトラックの運転手の運転マナーは最悪だが、一般の運転マナーは良いといった具合に職業性があった。
ところが、2000年以降は、地域性も職業性もなくなり、一億総日本人の運転マナーが同じになってしまっている。
一見、一億総日本人の運転マナーが向上したかに錯覚してしまいますが、実は、“自分さえよかったらいい”という超利己主義が蔓延している結果であることを見逃してはいけません。
その背景に、上記三つの現象が潜んでいるのです。