第十二章 束縛されない暮らし(2)

楽しい時間
我々は様々な他者(組織)による束縛の中で生活をしています。
社会のルール、会社の規則、学校の規則、家庭のルール等に縛られて生活しているのが現代社会の有様です。
勿論社会を構成する上で、ある程度の規則を設けて、それを守る事は大切でありますが、一方、理に適わない規則に縛られて、それを守る為に、本音と建前の乖離した生き方をしているのも現代社会に生きている我々です。
楽しく生きる一生か、苦しく生きる一生かで、人生80年は大きく違ってきます。
では、このような社会の中で楽しく生きるには、一体どうしたらいいでしょうか。
ある30代のサラリーマンを例にとって考えてみましょう。
リストラによる人員削減の影響で、早朝から深夜まで仕事に追われ、担当者の過重労働の上に成り立っている収益構造に理不尽さを感じながらも、辞める勇気もなく、支配者の圧力に屈して我慢して働いているのが、サラリーマンのいわば物理的且つ精神的束縛という二重苦の時間であります。
何故、ここまで我慢して働いているのかを自問自答すると、やはり拝金主義の世の中がそうさせているのです。
結局はお金を稼ぐ為に我慢して働いているのです。
家のローンや生活費や交際費等全てにお金が掛かってきます。
右肩上がりの高度成長期の社会では、我慢して頑張れば報われるという神話(終身雇用、年功序列)がありましたが、それが崩壊した現代では、不安に苛まれながら組織の中を彷徨っている社員が多数おります。
そんな二重苦の束縛から解放された休日に、恋人と共に過ごす時間が唯一楽しい時間であります。
映画を観たり、ドライブをしたり、食事をしたり、旅行をしたり、会話をしたり、そこには建前は一切存在しません。
やりたい事を一緒にする悦びが存在するのです。
恋人の喜ぶ顔を見たい一心でやりたい事(本音)をするのです。
損得の目的がある訳でもなく、ただ一緒にいるだけで幸せな気分になる事が出来るのです。
勿論、喧嘩をする事もありますが、それもちょっとの間、気まずくなるだけで、結局は相手に対する思いやりが優りすぐに仲直りします。
喧嘩は誤解やすれ違いによって生じるものだということを、心の通った者同士であれば直ぐに理解できるからです。
国家間の争いも、心の通った者同士の喧嘩のようであれば戦争にならないでしょう。
少し話が逸れましたが、二重苦の束縛から解放され、本音と建前の一致した生き方が楽しい生き方であり、そんな楽しい時間を共有できる他者こそが、組織といった無機的で不条理な虚像の他者ではなく、有機的で甘美な実像の他者と呼べるのではないでしょうか。

『今、ここ』を生きる
有機的で甘美な実像の他者と共有できる楽しい時間とは、過去も振り返らず、未来に想いを馳せることもない、『今、ここ』の『今』であります。
無機的で不条理な虚像の他者(組織)と共有する苦渋の時間とは、振り返る過去であり、取り越し苦労する未来であります。
『今、ここ』とは、時間である過去、現在、そして未来といった、日常生活における時間と空間が共存する概念世界ではありません。
つまり日常生活を超越した別世界であり、時間が流れる(厳密には時が支配する)中での日常生活空間とはまったく違った、固有の四次元世界の断面である唯一実在する三次元空間世界です。
したがって、『今、ここ』とは四次元時空間世界と三次元空間世界の交差点のことをいいます。
『今、ここ』を生きるということは、日常生活する自分など一切いないで生きるということです。
我々は、思考して日常生活を生きるという永年の習い性を持っている為に、思考しないで生きることに不安を覚え、何かしなければならないといった束縛感を感じ、それが不安な人生の根本原因となっています。
他の生き物は考えて生きているのではないのですが、人間は考えて生きていると思い込んでいる。
しかし人間も考えることで行動しているのではなく、感じることで行動しているのです。
考えが最初に起こったとしても、それを行動するためには感じなければ行動に移すことが出来ないのです。
すべての生き物は感じて生きているのに、人間だけが考えて生きていると思い込んでいる、この勘違いが束縛の原因であります。
生きているということは、『今、ここ』を生きている証です。
他の生き物たちはそれを素直に受けとめています。
人間だけが素直に受とめられずに、昨日や明日に生きようと無駄なあがきをして勝手に悩んでいるだけなのです。
しかし、普段考えているつもりの我々ですが、実は殆ど考えるという行為をしていません。
考えるという行為の本質は、自己の内面を観察する「内観」にあるのですが、我々が考えていると思っていることは、自己の外側を観察する「外観」をしているだけです。
外観をしているということは考えることではなく、連想しているということです。
外の景色の変化を受けて想いを巡らす主体は自分以外の他者(組織)にあるのに、それを自分の考えだと思っているのは甚だしい勘違いであります。
現代人が考えているというのは、内観ではなく外観、つまり他者(組織)の姿を観て自分に投影しており、「他人(組織)の目を気にした生き方」をしているのです。
自分では考えているつもりなのですが、実は連想しているだけで、外観という実在(実像)ではない映像(虚像)を気にしながら日々生きているのです。
実在(実像)とは、いついかなる場所であっても常に存在するものです。
それが自分であり、他者はいついかなる場所であっても常に存在するものではありません。
恋人や家族といった自分の愛する者であっても、所詮は他者であり、いついかなる場所でも自分と一緒に存在することはあり得ません。
そのことを如実に物語っているのが生死の問題で、独りで生まれ、独りで死んでゆくことです。
自分独りで生きているのに、その合間に出入りする他者を自分と同じ世界に存在すると勘違いするから、「他人が地獄」になるのです。
映画やテレビを観て一喜一憂するようなことと同じであり、少しでも早くそのことに気づいた人生を取り戻すことが、物質文明が発達した我々現代人には極めて重要なことなのです。
生きているということは、『今、ここ』の在り方です。
生きていると思っていることは『今、ここ』に対する考え方です。
生きていると自覚するには、『今、ここ』に対する在り方と考え方を一致させなければできません。
在り方と考え方が一致していることを本音といい、一致していないことを建前というのです。
本音とは、自分の欲望のままに生きることではなく、『今、ここ』を生きていることを自覚することです。
建前とは、『今、ここ』を生きていることを自覚しないで、欲望に振り回されて生きることです。
過ぎ去ったことや、未だ来ぬことを『今、ここ』に引き寄せようと、無理難題なことに想いを馳せることが欲望の正体であり、無理難題なこと自体が欲望なのです。
それは、我々が二元論の考え方に対する無知から、二元要因の幸・不幸、貧・富、善・悪などの、幸、富、善といった一方だけを受け入れ、不幸、貧、悪は拒否し、二元要因の好いとこ取りをしようとする無理難題なことを求めているからです。
在り方(本音)と考え方(建前)の一致した生き方は、虚像である他者(組織)を気にするようなことが自殺行為であることを教えてくれます。
束縛されない人生とは、『今、ここ』を生きることであり、『今、ここ』を生きるには、他者(組織)を実在(実像)と捉えている限り無理なことです。

思いやりの深さ
床に座り込み眠り呆けている学生や、イヤホンから洩れるロックの無機質な音に気づかない若者。
起き抜けのだらしない顔に化粧を塗っているOLや、周りを憚らず大声で亭主の悪口を言い合う主婦。
自分だけ気持ちよく大鼾をかくサラリーマン。
電車の中でのごく当たり前で何の不思議も感じない風景。
利益社会(ゲゼルシャフト)の究極である現代拝金社会にどっぷりと浸かりきった我々は、他人との関係などに全く気を配ることを忘れてしまった鈍感な個性の集まりになってしまっている。
こういった大人たちに育てられた子供たちは、将来に希望と目標を持てない人間になってしまっています。
豊かさの「ものさし」をモノの量に置き、その量を計る行為を他者(組織)という器でして、その量の大小を競い合うことが社会の存在価値であると信じ込んできた究極の結果が現代社会であります。
日々の報道で喧伝される拝金主義の窮まりのような事件は、正に末世を感じさせます。
一方、この様な事件に惑わされずに、根本原因の本質を見極め、豊かさの「ものさし」を変えようという議論が随所で起ってきていることも事実です。
この窮まった社会の振り子現象も、いよいよやって来る新しい社会の逆モーメントの影響を受け始めているようです。
五感を通じて得た感覚で自他を選別し判断するのではなく、五感を包含する肉体全体で捉え、内観で接することが自他との一体感をつくる筈です。
人の為にすることが結局の処は自分自身を楽にすることに他ならないのです。
自我意識(エゴ)が無くなり、『徳』というものを積み上げていく結果になるのです。
思いやりの深さとは『徳』力の大きさに他なりません。
これからやって来る新しい社会は、『金』力より『徳』力がモノを言う時代であり、その「ものさし」の目盛りが「思いやりの深さ」です。