第十一章 束縛されない暮らし(1)

束縛の歴史
現代社会における拝金主義の隆盛、その背景には組織重視の利益社会という構造がある。
組織重視の考え方の下では、そこに所属するものは従順であること、それが極端になれば、ロボットたることを強いられる。
しかし、我々はロボットであることを強いられてまで組織に尽くす、言い換えれば組織を維持する必要が何故あるのでしょうか。
組織の存在意義は、我々の安全を守り、豊かさを求めるための手段です。
豊かさを強く追求するあまり、我々は手段である組織に束縛されている羽目に陥っている。
この皮肉現象は、過去の歴史において幾度も繰り返されてきたことであります。
人類は、何かから逃れるために何かを得る・作り出すが、やがてその何かに束縛されるサイクルを繰り返しているのです。
本章ではそうしたサイクルの経緯を振り返ってみたいと思います。
人類の祖先はアウストラロピテクスという猿人と言われていますが、彼らが現れたのは、今から四百万年くらい前のことです。
猿とヒトとの決定的な違いは、直立二足歩行するかどうかにあります。
この変化は人類に二つの大きな変化を齎しました。
一つは手が自由になったこと、もう一つは脳の発達を可能にしたことです。
ではこの頃の人類はどのような束縛を受けていたでしょうか。
それは正に文字通りの自然の脅威であったと言えます。
未だ食物連鎖の一構成員であり、強い腕力と牙を持つ外敵に怯えて暮らしていた頃のことです。
やがて人類の祖先たちは、知恵が発達することによって、自然界の一構成員からそれを支配する上位者へとなることに成功します。
すなわち、外敵である動物を集団で狩をする方法を見出し、さらには道具(武器)を作り、火を使用することで、圧倒的な攻撃力を手にしました。
人類が地上の支配者となることを正に決定付けた進化と言えます。
その後人類は、猿人から原人(北京原人やジャワ原人)、原人から旧人(ネアンデルタール人)、旧人から新人(クロマニヨン人)へと進化していった。
その過程で、人類は原始共産社会(ゲマインシャフト)を形成して行きます。
これはあくまで狩猟をベースとした社会であり、狩猟を効率的に行うために集団が形成されたものです。
構成員は各々の役割を分担し、狩猟で得られた成果は、その分担に応じて平等に分配されていた。
やがて、人類は農耕を行うようになります。
農耕は狩猟と違って、その成果を備蓄することが出来ます。
これが再び人類の歴史に劇的な変化を齎します。
すなわち、他と比較して才のある者・集団はより多くの生産物を蓄積することが可能となり、結果、持つものと持たざるものが生まれます。
両者の関係はやがて、支配するもの・支配されるものへと変化します。
一部の支配者と奴隷によって構成される社会、古代奴隷社会の始まりです。
支配者の方便としての神・宗教が誕生するのもちょうどこの頃です。
この頃の多くの人類が受けている束縛とは、正に奴隷であることによる物理的束縛です。
そしてその物理的束縛は、本来厳しい生存環境から抜け出すために始められた農耕によって齎されたものでもあるのです。
負のサイクル構造がここに至って始まったのです。
古代奴隷社会の被支配者である奴隷は、同じ人間に生まれながら主人との立場の違いに当然ながら疑問を抱き、自らの境遇を嘆く筈です。
そして何らかの救いを求めずにはいられなかったのです。
そうした要請にぴったりと嵌って大きく発展したのがキリスト教です。
この宗教の特徴は「心の王国」です。
すなわち、現実世界の厳しさから逃れる術は無い代わりに、精神世界の安寧を与えることに成功した訳です。
キリスト教が布教された地域・時代はローマ帝国の最盛期であり、世界最強であったゆえに領内には多数の奴隷が存在した。
こうした奴隷の間に広がりを見せたキリスト教は、やがて支配者層にも広がり、ローマ帝国の国教となるに及んで、今日に至るまで西欧社会の精神的支柱で在り続けてきました。
ところが、キリスト教があまりにも勢力を増すことによって、それ自体が権威となって人々の生活規範を束縛するようになっていきます。
物理的束縛から精神的束縛に突入した時代です。
キリスト教の教義に疑問を差し挟むことは許されず、そこから逸脱した発想をすること自体がタブーとされてしまうようになったのです。
被支配者の心の苦しみを解放するために機能していた筈のキリスト教自体が、次第に「心の王国」を侵食していったと言えます。
この時代を古代と区別して中世と呼ぶのです。
やがて、こうした精神世界の束縛から逃れようする運動が始まります。
ルネッサンス以降の客観性重視の考え方は、自然科学の発展に特に大きく寄与し、人類の物質的な生活レベルの大幅な向上を齎しました。
しかし、もう一方の結果である、現代拝金主義社会においては、どこで道を誤ってしまったのか、人間はお金に縛られていきます。
客観性重視の手法をあまりにも組織の拡大維持に振り分けてしまったからです。
経済発展の歴史は、より効率的な組織の運営・維持の歴史でもあります。
人類は経済発展に重きを置くあまり、あまりにも組織の強化に努めた結果、組織による束縛に甘んじる状況に陥ってしまった訳です。

束縛のない生活 (組織による束縛からの解放)
生活物資が豊かになればなるほど、より大きな豊かさ、快適さを求めるのが現代物質文明社会です。
本来生きていくために摂る食事も、食が豊富になればより豪華な食事を欲するようになる。
単なる移動手段に使う自家用車にしても、使用用途をはるかに上回る高級車が欲しくなる。
身近な人が自分より高価なもの、便利なものを所有していたなら、物質への欲求は一層強くなるのが現代物質文明社会の特徴です。
豊富な物質を所有していること、若しくは保有する能力がある人(金持ちの人)こそ、現代社会において人生の成功者と言われる人々となっています。
一方、物質文明が発達すると精神的疾患者が増加するのも事実です。
生きていくのが精一杯の社会においては、日々の生活の糧を得るのに必死であるがゆえに、過去のこと、未来のことをくよくよ考えている余裕がありません。
ある程度の余裕が生まれてくれば、余裕ある生活が基準となり、「もっと良くなりたい・もっと楽になりたい」という際限のない欲望が逆に湧いてきます。
つまり常に自分の未来について想いを馳せて生きてしまうことになるのです。
人間の欲望の本質というのは、「何かを手に入れたい」という気持ちにあるのではなく、未来に思いを馳せて生きてしまうこと、逆に言えば、『今やれる事をやる、この積み重ねでしか未来はあり得ない』にも拘わらず、現在にその未来を手繰り寄せようとすることにあり、この衝動こそ、物質文明の発達に因って増加した精神疾患の正体であるのです。
それではどうして現代人は、現在に自分の未来を手繰り寄せようとするのでしょうか。
それは、自分独自の価値基準である「ものさし」が欠落していることに最も大きな要因があるのです。
自分自身に確固たる「ものさし」を持っていないのですから、物事の価値を計る「ものさし」を他者に求めざるを得ません。
誰もがお互いに「ものさし」を他者に求めるのですから、誰にでも共通するという「ものさし」が必要となってくる。
その「ものさし」となってしまったのが、本質的な面ではお金すなわち貨幣であり、共通性という面では他者の集団である組織であり、その行き着くところが現代拝金主義社会であるのです。 
自分自身の価値を計る「ものさし」がないために、他者(組織)が共通に認めるものでしか価値が判断できない、しかし自分で判断したものではないので、心の底にはどこか不安感が残っている。
その不安を消すために、他者(組織)が認めているものを更に多く集めたくなり、いわゆる現状・現実・現在に没頭できず(満足出来ず)、「もっともっと」と未来に思いを馳せることになるのです。
知らず知らずのうちに、常に他者延いては組織に束縛されながら生きているのが我々現代人であるのです。
束縛のない生活とは正に、「他人(組織)を気にしないで、自分自身の価値基準をしっかりと具え、その基準に従った生き方をする」ことに他ならないのであります。
お金では買えないこと、お金に変えられない経験は誰にでも一度はあることでしょう。
そしてそれは自分自身にとって強烈な印象となっている筈です。
他人がその話を聞いてもさほど大きな事柄ではないと感じるのに、本人にとっては大変重要な内容というのが多いのは、正に自分自身の価値基準に基づいている証拠であります。
交通事故による死亡者の数が年間ほぼ1万人の交通戦争時代と言われる現代日本社会にあって、その3倍(年間3万人超)にも上る自殺者がいる現状を考えれば、精神的疾患度合いは正に極みにあり、わが国は物質文明(拝金)戦争の戦犯国、且つ最大の被災地であると言えるのではないでしょうか。
こういった精神戦争が続けば、その戦火はいつ自分に降りかかってくるかも知れません。
これからやってくる社会に向け、我々にまず必要なことは、他者(組織)の束縛から自身を解き放つこと、すなわち自分自身の価値基準を明確に具え、それに則した生活を行うことが「束縛のない生活」を送ることになるのです。