第七章 仮想社会=循環社会

I.円回帰社会は映像(現象)社会
新しい人間社会、すなわち、超自然社会の新しい価値観(新しい考え方)とは、
正さま社会(一元論的実在社会=始点静止社会=自然社会)→逆さま社会(二元論的現象社会=円周運動社会=従来の人間社会=超自然社会)→正さま社会(三元論的虚像社会=終点静止社会=新しい人間社会)に回帰(円回帰)する社会の価値観(考え方)に他ならない。
そこで、
始点→円周→終点で終結すれば、一回の円で帰結するだけで、円回帰運動とは言えないが、始点→円周→終点→始点→円周→終点・・・と永遠に繰り返してはじめて円回帰運動になるわけです。
つまり、
円回帰運動とは永遠に静止しない世界ということになるわけです。
従って、
正さま社会(一元論的実在社会=始点静止社会=自然社会)とは実在社会であるのに対して、
逆さま社会(二元論的現象社会=円周運動社会=従来の人間社会)とは映像社会であり、
正さま社会(三元論的虚像社会=終点静止社会=新しい人間社会=超自然社会)とは映像の映像社会ということになります。
つまり、
円回帰運動するとは、
実在→映像→映像の映像→映像の映像の映像→映像の映像の映像の映像・・・と永遠に映像の映像を映すことに他なりません。
まさに、
円回帰運動社会とは、
最初に実在の自分が社会という鏡の前に立った時(始点)から、映像の映像(鏡の中の鏡の映像)が永遠と続く社会に他ならないのです。
まさに、
仮想世界とは映像の映像世界に他なりません。
従って、
円回帰社会とは映像(現象)社会に他なりません。

II.映像(現象)社会=映像の映像社会
円回帰社会とは映像(現象)社会に他ならない。
ところが、
従来の人間社会では、自分たちの人間社会が正さま社会であると勘違い(錯覚)していたため、逆に自然社会を逆さま社会と見下すようになってしまったのです。
まさに、
人間が自然社会の野生の生きものを「畜生」と蔑む所以です。
まさに、
人間が自分たちを万物の霊長と自我自賛する所以です。
ところが、
実体は正反対だったのです。
自然社会が正さま社会で、人間社会が逆さま社会だったのです。
つまり、
逆さま社会が正さま社会だと錯覚すれば、逆さま社会が正さま社会で、正さま社会が逆さま社会だと二重の錯覚をするわけです。
まさに、
この二重の錯覚こそが、人類のみならず地球最大の悲劇を惹起したのです。
言い換えれば、
この自覚症状の無い音痴状態こそが、人類のみならず地球最大の悲劇を惹起したのです。
その結果、
地球環境問題、大地震や大雨災害、そして、自然社会の生きものの絶滅問題などが次から次へと発生しているのです。
まさに、
人類の自覚症状の無い音痴状態が原因で、地球規模の問題が起こっているわけです。
従って先ず、
従来の人間社会が逆さま社会であることを自覚することです。
まさに、
先ず、
ひとり一人の人間が音痴であることを自覚することです。
そして次に、
正さま社会の新しい社会を構築することです。
そして次に、
ひとり一人の人間が音痴を治すことです。
そして最後に目差すべきは、
正さま社会(三元論的虚像社会=終点静止社会=新しい人間社会)という映像の映像社会ということになります。

III.実在社会(自然社会)& 映像の映像社会(新しい人間社会=超自然社会)
そして最後に目差すべきは、
正さま社会(三元論的虚像社会=終点静止社会=新しい人間社会)という映像の映像社会ということになります。
そうしますと、
正さま社会(一元論的実在社会=始点静止社会=自然社会)とは実在社会である。
一方、
逆さま社会(二元論的現象社会=円周運動社会=従来の人間社会)とは映像社会である。
他方、
正さま社会(三元論的虚像社会=終点静止社会=新しい人間社会=超自然社会)とは映像の映像社会である。
では、
正さま社会(一元論的実在社会=始点静止社会=自然社会)、
と、
正さま社会(三元論的虚像社会=終点静止社会=新しい人間社会=超自然社会)、
では、一体何が違うのでしょうか?
まさに、
一元論実在と三元論虚像の違いである。
まさに、
始点と終点の違いである。
まさに、
自然と超自然の違いである。
詰まる処、
一元論と三元論の違いとは、始点と終点の違いであり、実在と虚像(映像の映像)の違いであり、自然と超自然の違いなのである。
更に言い換えれば、
一元論と三元論の違いとは、始点と終点の違いであり、自然と超自然の違いであり、無限静止と無限運動の違いであり、0と∞の違いであり、実在と虚像(映像の映像)の違いであり、畢竟、映像の映像の映像・・・・・の行き着く先は実在なのである。
IV.事実→真実→真理
一元論と三元論の違いとは、始点と終点の違いであり、自然と超自然の違いであり、無限静止と無限運動の違いであり、0と∞の違いであり、実在と虚像(映像の映像)の違いであり、畢竟、映像の映像の映像・・・・・の行き着く先は実在なのである。
そこで、
実在と実像と虚像(映像の映像)の関係について更に詳細に検証してみましょう。
自分(実在)が前の鏡に立っていると、鏡の中に自分の姿が見えますが、自分の全貌ではなく一部しか見えず、現にうしろ姿は見えません。
ところが、
自分(実在)の後にも鏡が立っていると、前の鏡の中に映っている後の鏡の中に自分のうしろ姿も見えます。
つまり、
前の鏡だけなら、自分の全貌の一部しか見えません。
まさに、
事実とは自分の全貌の一部しか見えない映像(現象)に他なりません。
一方、
前と後の両方の鏡なら、自分の全貌が見えます。
まさに、
真実とは自分の全貌が見える映像の映像(現象)に他なりません。
他方、
前と後の鏡に映し出されている自分の姿は映像の映像の映像・・・と無限にあります。
まさに、
真理とは自分の全貌が見える映像の映像の映像・・・と無限の映像(現象)に他なりません。
従って、
円回帰運動するとは、
実在→映像→映像の映像→映像の映像の映像→映像の映像の映像の映像・・・と永遠に映像の映像を映すことに他なりません。
まさに、
円回帰運動社会とは、
最初に実在の自分が社会という鏡の前に立った時(始点)から、映像の映像(鏡の中の鏡の映像)が永遠と続く社会に他ならないのです。
言い換えれば、
最初に実在の自分が社会という鏡の前に立った時(始点)から、
事実→真実→真理と循環する社会に他ならないのです。
まさに、
仮想(映像の映像)社会とは、事実→真実→真理と循環する社会に他ならないのです。