第二十三章 超個人の時代

I.「個人の時代」と「組織の時代」を繰り返す文明社会
12000年前にはじまった文明社会とは、「個人の時代」と「組織の時代」を繰り返す社会でした。
先ず、
文明社会の黎明期だった古代の社会、すなわち、古代奴隷社会は「個人の時代」でした。
なぜなら、
一人の王のために多くの奴隷が家畜以下の生活を強いられる社会だったからです。
次に、
古代奴隷社会のアンチ・テーゼとして誕生した中世の社会、すなわち、中世封建社会は「組織の時代」でした。
なぜなら、
人間(王=支配者)の際限なき欲望が奴隷(王の所有物=被支配者)の数を増やした結果、奴隷の造反を怖れ、一定の雇用契約として、支配者側と被支配者の間に誕生したのが封建制度だったからです。
次に、
中世封建社会のアンチ・テーゼとして誕生した近世の社会、すなわち、近世絶対王政社会は「個人の時代」でした。
なぜなら、
中世封建制度が亢進した結果、数的に力(マジョリティー)をつけてきた奴隷(王の所有物=被支配者)の造反を抑えるために、絶対王政に逆戻りしたからです。
そして、
近世絶対王政社会のアンチ・テーゼとして誕生した近代の社会、すなわち、近代民主主義社会は「組織の時代」でした。
なぜなら、
中世封建時代から近世絶対王政時代には殆ど人口増加がなかったのに、ルネッサンス、宗教改革、産業革命という近代化の種によって、多数決の原理に基づいた民主主義が必然的に誕生したからです。
まさに、
12000年前にはじまった文明社会とは、「個人の時代」と「組織の時代」を繰り返す社会だった証明に他なりません。

II.「個人の時代」と「組織の時代」を超える超文明社会
12000年前にはじまった文明社会とは、「個人の時代」と「組織の時代」を繰り返す社会だった。
そして、
21世紀は「個人の時代」が到来すると言われています。
まさに、
古代奴隷社会(個人の時代)→中世封建社会(組織の時代)→
近世絶対王政社会(個人の時代)→近代民主主義社会(組織の時代)→???社会(個人の時代)というわけです。
では、
???社会(個人の時代)は依然、文明社会の延長なのか?
若しくは、
???社会(個人の時代)は、脱文明社会、すなわち、超文明社会なのか?
まさに、
超格差社会が、文明社会の延長の証に他ならないでしょう。
まさに、
超平等社会が、超文明社会の証に他ならないでしょう。
従って、
超格差社会における「個人の時代」は、しょせん、文明社会の延長線上での「個人の時代」に過ぎません。
一方、
超平等社会における「個人の時代」とは、「超個人の時代」と言えるでしょう。
言い換えれば、
超文明社会における「個人の時代」とは、「超個人の時代」と言えるでしょう。

III.「個人」と「超個人」の決定的な違い
超格差社会における「個人の時代」は、しょせん、文明社会の延長線上での「個人の時代」に過ぎない。
一方、
超平等社会における「個人の時代」とは、「超個人の時代」と言える。
言い換えれば、
超文明社会における「個人の時代」とは、「超個人の時代」と言える。
では、
「個人」と「超個人」とは一体何が違うのでしょうか?
まさに、
「個人」とは利己主義的個人に他なりません。
言い換えれば、
「個人」とは利自主義的個人に他なりません。
そして、
利自主義とは、“自分さえ好かったらいい!”という考え方に他なりません。
一方、
「超個人」とは利他主義的個人に他なりません。
そして、
利他主義とは、“先ず他人が好かったらいい!”という考え方に他なりません。
従って、
「個人」は、“自分さえ好かったらいい!”と考える。
一方、
「超個人」は、“先ず他人が好かったらいい!”と考える。
そして、
現代人間社会では、ほとんどの人間が“自分さえ好かったらいい!”と考えています。
まさに、
現代人間社会が、超格差社会になっている証明です。
まさに、
差別・不条理・戦争が横行する社会である証です。
ところが、
ひとり一人の人間は、差別・不条理・戦争が失くなることを願っています。
つまり、
ひとり一人の人間が、本音と建前が混在した生き方をしているのです。
では、
差別・不条理・戦争が失くなることを願っていることが、ひとり一人の人間の本音なのでしょうか?
それとも、
差別・不条理・戦争が失くなることを願っていることは、ひとり一人の人間の建前で、本音では差別・不条理・戦争を容認しているのでしょうか?
まさに、
この問題が、“自分さえ好かったらいい!”という考え方の罠だったのです。
そして、
この問題が、「個人」と「超個人」の考え方の決定的な違いだったのです。
言い換えれば、
“自分さえ好かったらいい!”という考え方と、“先ず他人が好かったらいい!”という考え方の決定的な違いだったのです。

IV.「個人」を超える「超個人」の真の意味
差別・不条理・戦争が失くなることを願っていることが、ひとり一人の人間の本音なのか?
それとも、
差別・不条理・戦争が失くなることを願っていることは、ひとり一人の人間の建前で、本音では差別・不条理・戦争を容認しているのか?
どうやら、
ひとり一人の人間の本音では、
人間全員の平等・公正・平和を願っているので決してなく、
自分ひとりだけの平等・公正・平和を願い、自分以外の者には逆に差別・不条理・戦争を願っているようです。
そして、
ひとり一人の人間の建前では、
人間全員の平等・公正・平和を願っているようです。
ところが、
自分が思うことは、すべての他人も思うのが真理です。
そうしますと、
本音と建前の二本立ての考え方は、実現が絶対不可能な考え方ということがわかります。
言い換えれば、
本音と建前は逆さま関係にあることがわかってきます。
つまり、
「個人」と「超個人」は逆さま関係にあることがわかってきます。
そして、
逆さま関係にあることは、実現が絶対不可能なのです。
従って、
実現が可能にするには、「個人」と「超個人」が逆さま関係にならないことです。
言い換えれば、
実現が可能にするには、「個人」と「超個人」が二律背反関係にならないことです。
逆に言えば、
実現が可能にするには、「個人」と「超個人」が補完関係になることです。
まさに、
「超個人」が「個人」を超えることの真の意味である所以です。