Chapter 91 絶対的善と相対的善

他人の存在が自分の人生に地獄をつくる。
確かに、そうなのですが、それでは他者との関わりはすべて面倒なものだけでしょうか。
そうではありません。
面倒なものにするのも、わたしたちそれぞれの心(意識)の姿勢の問題に帰結するのです。
もっと厳密に言えば、自分自身に対することも含めて、他者に対する心(意識)の姿勢に掛かっているのです。
結局は、自分の問題です。
他者の存在は、自分の心(意識)の姿勢を鏡に映しているだけのことです。
どんな人間でも、他人のことを話していても、それは自分自身のことを話しているのです。
他人のことを誉めたり、貶すのは、自分自身のことを誉めたり、貶したりしているのであって、人間というものは、自分以外の人のことを話しすることは有り得ないのです。
自分自身のことを話しするのは、自分という鏡を通して話しているのです。
他人のことを話しするのは、他人という鏡を通して自分のことを話しているのです。
結局、人間という動物は自分のことしか話ししないのです。
所謂、井戸端会議というもの、最近ではテレビの低俗なワイドショーを筆頭の、「誰がどうした、どう言った・・・」という類のものはみんな、喋っている己の心情を吐露しているのです。
自分が話しすることは、自分についての話だけであることを、よくよく認識して置くことが大切です。
そうすれば、他人の存在は天国にもなり得ないが、地獄にもなり得ません。
他人のことをよく話しする人ほど、他人の存在が地獄になるだけのことですから、自分のことを、他人を通して話することさえしなければ、他人が地獄になることは少なくとも避けることが出来るのです。
考えてみれば当然ですが、他人のことをいろいろ言うが、他人のことなどわかる筈がない。
言っているのは、他人をどう思っているかという己のことを言っているのです。
客観的意見などといったものは、決して有り得ないのであって、すべて主観です。
すべて主観ですから、自分独りだけの世界であることは至極当然です。
問題は、その事実を自分がどう捉えるかにあるのです。
自分のことを、他人を通して表現すると、自分という主観の鏡と、他人という客観の鏡という2枚の鏡が向かい合って、その間を、往ったり来たりすることになる。
向かいの鏡は反射し続け、その内、どちらが自分の鏡か他人の鏡か判らなくなる、これが地獄なのです。
他人自身の存在は、何も変わってはいないのです。
「他人」を「他のすべてのもの」と入れ替えても同じです。
結局、地獄をつくるのも自分、天国をつくるのも、決して他人の存在では無く、自分しか無いのです。
従って、他人という実体は、自分には存在し得ないのです。
他人が実体のあるものであれば、他人の存在如何で、地獄にも天国にもなりますが、そのようなことは有り得ないのです。
わたしたちは、映画を観て、その中の登場人物を評価します。
先ず主人公は主人公ですから、絶対的善であるのです。
共演者は、相対的善と相対的悪とがいます。
相対的善と相対的悪は、相対というコインの表裏ですから、いつでも入れ替わることができます。
他人とは、背景画面に登場する共演者です。
2時間程で終わる映画であれば、善なる共演者で終わる他人も在り得るのですが、「私」が主人公の背景画面に映る映画は、無制限連続バラバラ1本立て映画ですから、相対的善と相対的悪はひっきりなしに交替します。
人間の世界に戦争が絶えないのは、政治問題、経済問題が原因ですが、その根元には、この相対的善と相対的悪のひっきりない交替に振りまわされるそれぞれの心(意識)の姿勢に問題があることを人間は知らなければなりません。
サダム・フセインとアメリカとの蜜月時代があったのです。
ソ連をアフガニスタンから追い出すのに、オサマ・ビン・ラディンとアメリカは手を組んだ時期があったのです。
その頃の彼らは、お互いに相対的善であったのに、今は相対的悪になっているだけのことです。
従って、いつかまた相対的善に替わるでしょう。
いや既に、彼らの関係は、相対的善に替わっているかもしれません。
この世の中の現象を相対的に捉えたら、この世の中は地獄になります。
人間がつくった憲法、法律といったものも、典型的な相対的善悪の基準ですから、そのようなものを基準に人生を送ることは、まさに地獄の中で生きているようなものです。
わたしは、「鬼神」という作品の中で、新しい憲法を提起しましたが、「鬼の掟」というものを、その憲法の精神に挿入しました。
「鬼の掟」は、宇宙の掟であって、人間の掟ではないのです。
即ち、絶対的善です。
絶対的なものは、自分独りの世界にしか存在しません。
だから、実在、実存と言うのであって、従って実世界であるのです。
わたしたちが、他人と共に存在していると思っている、所謂現実の世界は、相対的な虚世界なのです。