Chapter 88 蜃気楼に怯えるわたしたち

Chapter87で、普段わたしたちが現実だと思っている世界が虚世界で、夢を観ている世界が実世界だと申しました。
Chapter86の冒頭で、わたしたちは二重の人生を送っていると申しました。
ノドという町に立っている道標には、善悪二元への世界と、三元世界への標識が立っていて、わたしたちが現実と思って生きてきた実時間世界が、善悪二元の世界の実世界で、虚時間の三元世界が虚世界だと思われたのではないでしょうか。
しかし、考えてみれば、わたしたちが生きている世界が、過去や未来に想いを馳せているものならば、これは幻想の虚ろな世界以外の何ものでも無いわけです。
まさに背景画面に同化している自分を、自分だと思っている世界です。
一方、『今、ここ』に、ただ居るだけで、自分を支配して流れる実時間から、自分と一緒に居る虚時間になってくれるのです。
一緒に居ると、電車の中に居る自分と同じで、慣性の法則によって流れ(動き)を感じないのです。
だから、『今、ここ』に居ることが出来るとも言えます。
そして、『今、ここ』に居ることが出来たら(認識出来たら)、三元世界への道に向かって歩き出すのです。
つまり、走っている電車の中に居る自分を、外から眺めているのではなく、走っている電車の中に居る自分が、電車の中を歩き出すことを意味しています。
そうしますと、電車の中には、いろいろな人たちが同乗していますが、その人たちも、電車の中に居る自分を認識していると、対話が出来るのです。つまり実舞台で共演しているのです。
しかし彼らが、『今、ここ』に居ることを認識しておらずに、それぞれが、電車の外から眺めていると錯覚しているなら、ただ人形が電車の中に居るように無反応で対話など出来ない、つまり背景画面に同化していて、実舞台に立って共演出来ないのです。
醒めているとは、『今、ここ』に居ることを認識していることで、眠っているとは、『今、ここ』に居ることを認識していないことを言うわけですから、どっちが実世界であるか、虚世界であるか、はっきりして来た筈です。
醒めた人から眠った人を見れば、眠っていると見えるのです。
眠っている人から眠っている人を見れば、お互いに醒めていると見えるのです。
眠っている人から醒めた人を見れば、眠っていると見えるのです。
しかし、わたしたちすべては、『今、ここ』に居るのです。
認識しているか、しないかだけの違いなのです。
認識しているから醒めているのです。
認識していないから眠っているのです。
聖書では、ノドとは彷徨(さすらい)を意味すると書かれています。
『今、ここ』とはノドの場所を指しているのですが、そこは彷徨(さすらう)場所なのです。醒めていたら、三元世界への道に向かうでしょう。
眠っていたら、善悪二元の世界への道に向かうでしょう。
どちらに決めるかは、わたしたち次第です。
道標はあるのですが、決めるのは、わたしたちひとりひとりです。
だから、彷徨(さすらい)の場所なのです。
『今、ここ』に居ることを認識しているか、していないか。
眠っているか、醒めているか。
それを知るための兆候(しるし)は、過去や未来に想いを馳せて生きているか、生きていないかを先ず自覚することです。
想いを馳せている過去や未来は、想いを馳せると見えてくる蜃気楼のようなものです。
想いを強くすれば、蜃気楼もよりはっきり見えてきます。
想いが弱くなると、蜃気楼もぼやけてきます。
蜃気楼は所詮蜃気楼であって、実体は無い。
馳せる想いを強くしたり弱くしたり出来るのは、自分の意思で可能です。
あなたは醒めている実世界に生きているでしょうか。
あなたは眠っている虚世界で、蜃気楼に怯えて、まだ生きているのでしょうか。
あなたが怯えている蜃気楼をつくっている蜃という生き物は、実はあなたであり、蜃が吐く気は、眠っているあなたの吐息なのです。