Chapter 83 夢は三途の川の流れ

わたしたちの意識は、本来はほこりのまったく無い鏡のようなものですが、記憶が始まった3才頃からほこりがたまり始めます。
ほこりのまったく被っていない鏡が、「わたし」です。
ほこりの被っている鏡が、「私」です。
従って、「わたし」は唯一無二の本当の自分(集合意識の一部として自覚する自分)であり、「私」はほこりの被り具合で曇り度が変わる複数の自分(個別意識と勘違いしている自分)であるのです。
記憶がほこりになるわけですが、鏡自体は何も変わらないのですから、「わたし」と「私」の根は同じであるのです。
自覚している自分と勘違いしている自分の違いだけです。
ところが勘違いしている自分の方が、宇宙から−宗教の世界では神と言っているようです−与えられた一日と一年という(地球上だけに限っての)時間の殆どを占有しておるのです。
勘違いしている阿呆な自分が、自分の人生における大事な時間を独占しているのですから、阿呆な人生を送るわたしたちが四苦八苦するのは仕方ないことでしょう。
自業自得の人生です。
夢を観るということは、ほこりのたまっている鏡を、透明な本来の鏡に戻す為に、ほこりを洗い流す作業に外ならないのです。
従って、ほこりのない透明な鏡であれば、洗い流す必要がないわけですから、夢を観ることはありません。
「わたしは夢を観ることが無い」と豪語される方の心(意識)は、ほこり一粒も被っていない奇麗な鏡なのでしょう。
それとも、ほこりが余りにも多くたまってしまって、照らす鏡の面がほこりによって完全に覆われてしまった結果、夢を観ていることすら自覚できなくなっているのでしょう。
夢を観るということは、記憶を持った自分の意識つまり、「私」が鏡に映るということです。
たまったほこりを映している鏡が、「私」であって、ほこりがその鏡に映っている様子が夢となって現れるのです。
従って、「私」と夢が同体であるわけです。
背景画面という夢の中で、同化している自分が、「私」であると言っている所以であります。
そこで、もう少し堀り下げて行きますが、ほこりとほこりのたまっている鏡との関係であります。
鏡は実体のあるものです。
ほこりは実体のないものです。
ほこりのたまっている鏡は、曇ってはいるが、やはり実体のあるものです。
四階の席に座って、ただ鑑賞している、「わたし」が鏡そのものであります。
ほこりがたまって曇っている鏡が、実在する舞台であります。
実在する舞台で芝居を演出し、演じているのが、ほこりそのものであり、「ほこりのたまり具合」が、演技の内容であるのです。
そこで、「ほこりのたまり具合」というものは、先に申しました、時間の流れの中で起こる現象であることを理解して欲しいのです。
舞台の演技がどんどん変わって行くに連れて、回り舞台のように、舞台そのものも変化して行く。そして舞台装置である背景画面も変化して行く。
変化するものは、すべて時間の流れに依るものです。
変化しないものは、時間の流れに左右されないものです。
従って、実体あるものとは時間に支配されないもの、即ち変化しないものであり、実体のないものだけが、時間に支配されその流れの中で変化するのです。
実体ある鏡に主体を置くか、鏡の上にたまるほこりの様子に主体を置くかの違いであり、鏡自体には何の変化もないわけです。
四階の席に座っている自分は、鏡そのものです。
四階の席から見える舞台も、鏡そのものですが、ほこりが舞っている。
背景画面は、舞っているほこりが、時間と共に変化している様子を映写している。
結局の処、「わたし」と「私」の間に時間という架け橋が掛かっているのが、わたしたちが生きているという証なのです。
死ぬと、時間の架け橋がなくなってしまうのです。
時間の架け橋が消える、つまり時間の観念が無くなってしまうと、四苦八苦など雲散霧消してしまいます。
その架け橋が掛かっている川が三途の川と言うのでしょうか。
自分の人生劇場にある観客席と舞台と背景画面の三つが流れている川を三途の川と言うのでしょうか。
わたしはまだ死んだことがありませんので、はっきりとは申せません。
わたしが以前書いた詩を紹介しておきます。


(第四十四の叫び) 三途の透明橋

黄泉の国は三途の川の向こう岸
三途の川を渡るには三つの橋がある
右の橋は吊り橋
左の橋は石の橋
真中の橋は彼岸からの透明な橋
この世で善人と呼ばれた人は石の橋を渡る
この世で悪人と呼ばれた人は吊り橋を渡る
だけどこの二つの橋は途中で消える
そして川の渦に飲み込まれる
三途の川は波のない川
だけど石の橋と吊り橋の下だけには渦がある
渡る人の息と想いが渦をつくる
渡れるのは透明な橋だけ
彼岸につながると信じる者だけが渡れる透明な橋


詩集「自然の叫び」より