Chapter 82 白色の人生・色とりどりの人生

毎日楽しい人生を送れる方が良いに決まっていますが、なかなかそういうわけにはいかないようです。
禅の言葉の中で「安心立命」というものがありますが、生きている間ずっと安心の境地でいるという意味でありますが、そうでないから、それを目指して修行しているわけです。
安心でないのだから、不安なのでしょう。
では一体何が不安なのでしょうか。具体的なことがあるのでしょうか。
不安に思う具体的なことがあるから不安に思う筈であります。
ただその不安に思うことが、『今、ここ』に存在しない点に問題があるのです。
過ぎ去ってしまった過去にあったり、未だ来ぬ未来にあったりするわけです。
わたしたちが、行動することが出来るのは、『今、ここ』だけです。
即ち、自分の人生劇場の四階の席に座って、四階からしか見えない舞台と背景画面を観る「わたし」と、舞台で演じ、且つ演出している、複数の「私」を同化・投影させることによって、行動するのが、『今、ここ』という舞台であるのです。
背景画面に映っている映画は、決して、『今、ここ』ではないのです。
何故なら、『今、ここ』の占有権は四階の席からしか見えない舞台が持っているのであって、背景画面は舞台を彩る過去の出来事や未来の出来事を映している舞台装置であります。
コンサートで舞台の主人公が、過去の自分をスライドにして映したり、結婚式で新郎新婦の思い出のアルバムを映写したりするのは、まさに舞台を彩る舞台装置です。
わたしたちの人生劇場にも舞台を彩る舞台装置としての背景画面があります。
しかし演じるのは、背景画面ではなくて、その前にある舞台、つまり、『今、ここ』であるのです。
ところが、舞台の上で演じることなく、何もしないで背景画面を観てはぼっとしておるのが、不安を持つ自分であるのです。
従って、不安を持つ自分は、席に座っている、「わたし」ではなく、舞台で演じている、複数の「私」なのです。
舞台で演じている、複数の、「私」は背景画面を観ていたら演じることはできないのです。
背景画面を観ることが出来るのは、席にいる、「わたし」だけであります。
本当の自分である「わたし」が同化・投影する複数の「私」は背景画面の無制限連続バラバラ1本映画にも出演し、舞台でも演じているわけです。
だから、本当の自分でないからと言って、「私」を無視するようなことはしてはいけないし、またすることも出来ません。
本当の「わたし」と同化・投影される結果生じる「私」とを明確に区分けすることが大事なわけです。
鑑賞者は鑑賞者として、ただ鑑賞することに徹する。
演出者は演出に徹する。
舞台役者は舞台での演技に徹する。
背景画面の中に登場する映画俳優は映画の中での演技に徹する。
鑑賞者、唯一無二の「わたし」です。
舞台の演出者、舞台役者、映画俳優は「私」ですから複数にならざるを得ないのです。
そして、『今、ここ』である舞台で演技する、即ち、行動できるのは、「わたし」ではなく、演技する「私」であり、その演技を演出する、別の「私」であるから話はややこしくなるのです。
そこで大事なのが、複数の「私」というのは、実在するものではなくて、「わたし」が同化・投影したものであるということをはっきり認識していることです。
本当の「わたし」は飽くまで鑑賞者ですから、行動することは出来ないのです。
鑑賞者の、「わたし」がその役割分担をきっちり認識したら、演出する「私」、演技する「私」、映画俳優である「私」をきっちり区分けできるのです。
区分け出来るのは、鑑賞する「わたし」しかいないのです。
従って、鑑賞する本当の「わたし」には、楽しいとか悲しいといった一喜一憂することがない。
一喜一憂するのは、複数の「私」であることを、「私」に言い聞かせることです。
安心立命の境地で生きたいのは山々ですが、安心立命の境地には、一喜一憂も無いことを知るべきです。
つまり安心と不安はコインの裏表であって、安心だけを欲しがるのは、無いものねだりであることを肝に銘じておくことです。
楽しい人生を送ることは、必ず悲しい、苦しい人生を送る羽目になることを自覚することです。
真っ白な人生か、色とりどりの人生か。
白色は、すべての色が集まってできたもの。
ひとつ一つの色は、その色が欠落した結果投影されて表れてくるもの。
赤色は、赤色以外の色が集まって白色になっているのに、赤色だけが集まりから仲間はずれにされた結果残されて赤色を放っていることを忘れてはいけません。
赤色が自己主張して赤い色を放っているのではなく、拒絶されて赤い色を心ならずも放っていることをよく知っておくことです。
トータルな白色の人生か、欠落している色とりどりの人生か。
選ぶのは、あなたひとり一人ですが、選択基準を知らなければ、あなたにとって最良の選択は出来ないのは当然です。