Chapter 78 最後の切り札

わたしたちが送る人生の中で、生きる苦しみ、老いる苦しみ、病気の苦しみ、死ぬ苦しみ、所謂生老病死の四苦が、やはり最も深刻な問題であることは確かでしょう。
しかし、この四苦も突き詰めてみれば、やはり死の問題に行き着くわけです。
しかし、死の問題を抱えているのは、わたしたち人間だけです。
何故なら、死ということを知ったからです。
他の動物たちにも死は必ずやってきます。
しかし、彼らは死ぬということを知りません。
知らないことは、知らないものにとって存在しないのです。従って、彼らの世界には死はありません。
死という言葉も、わたしたち日本人だから知っているわけで、英語を喋る国の人たちには、DeadやDieという言葉はあっても、死はありません。
死という問題は、四苦の究極の問題であって、他の苦、つまり生きる苦、老いる苦、病気の苦は死というゴールへ到達する上でのプロセスであるのです。
要するに、原因と結果の関係にあると言っていいでしょう。
生きているから老いる。
老いるから病気になる。
病気になるから死ぬ。
死ねば、生きる苦も、老いる苦も、病気の苦も消滅してしまうのです。
わたしは子供の頃から、病気と死の相関関係に疑問を持っていました。
癌になった方が死ぬと癌は何処に行くのでしょう。
AIDSになった方が死ぬとAIDSウィルス(HIV)は何処に行くのでしょう。
SARSになった方が死ぬとSARSウィルスは何処に行くのでしょう。
生きている間なら、それらの病原は動くことが出来ます。
しかし死んでしまったら動くことが出来ません。
わたしは医者ではありませんが、生老病という三苦の問題解決は、死の問題解決にかかっているように思うのです。
医術が進歩して寿命も延び、不治の病も不治でなくなっていることは確かですが、どうも鼬ごっこをしているように思えてならないのです。
肺結核は50年前までは不治の病でしたが、今では薬で治ります。
風邪は、最近までは深刻な病気とは思われていなかったが、SARSによって深刻な病気になる心配が出てきました。
末期癌は不治の病だと言われていますが、アメリカでは、既に治療方法は発見出来ているようです。現にアメリカ人の死亡原因から癌は減りつつあります。
いくら医術が進歩しても、その医術が対症療法である限りは、病原との鼬ごっこが続くだけのことであり、ますますエスカレートするだけのことです。
原因は、対症療法という医術に問題がありますが、更に突き詰めて行きますと、結局の処、死の問題になるのです。
では、死の問題とは一体いかなるものかをよく理解することですが、わたしたちは、この問題に対して漠然と理解しているだけで、より理解しようとする姿勢が無いように思えてなりません。
恐くて避けているのでしょう。
見て見ぬ振りをしているのでしょう。
夢という背景画面に映っている映像の中に、死の場面があると、わたしたちは目を背けます。
「いや、自分は、死の場面が出てくると、わくわくして観ている」
と言われる方もいるでしょう。
そういう方は、極度な臆病か勇気のある方です。
一般の方、特に女性の方は、自然に目を背けます。
ここに問題の原点があるのです。
死の場面が問題ではなくて、背ける行為に問題の原点があるのです。
いかなる背景画面であっても、それは自己の人生の予告編であるのですから、避けて通るわけにはいかないのです。
予告編を現実のものにしたくなかったら、背景画面の映写を止めるしか方法はありません。
つまり自ら死ぬことです。
自殺という行為は、本質的には聖なるものです。
死と直面して生きる行為は、更に聖なるものです。
だから、わたしたちは生きるのです。
生きながらにして死んでいる行為は罪行為です。
生きる苦しみ、老いる苦しみ、病気の苦しみの唯一の問題解決は、死と直面することです。
切り札は自殺ですが、切り札は最後まで出さぬが華です。