Chapter 76 生きるとは

人間、苦しい状態の時、ストレスを蓄積したら、悪循環に陥りやすくなります。
それは何故かと申しますと、『今、ここ』から、『次、あそこ』に意識が行ってしまうからで、結果、自我意識(エゴ)のほこりがいっぱいついた、複数の「私」に分裂してしまうからです。
複数の、「私」は、ことある毎に自己を主張しますから、分裂状態になるのは当然で、「こうなったら、どうするんだ!」と主張する、「私」もいれば、「ああなったら、どうするんだ!」と主張する、「私」もいる。
「こうなったら」、「ああなったら」のような漠然とした表現を使うのが自我意識(エゴ)の特徴であって、特に、「どうするんだ!」が、彼らの得意の表現なのです。
大企業の偉いさん、政治家、役人、最近では医者もその仲間に入って来たようですが、彼らにも、この言葉を口癖にするのは偶然の一致でしょうか、兎に角、わかり難い表現を使うことによって保身を図っているのですが、こういう人たちはエゴの極めて強い方々です。
彼らの主張の根拠は、『前、あそこ』の記憶(ほこり)をしっかり蓄積していて、「以前こうだった、ああだった」から、「こうなるかも知れない、ああなるかも知れない」と主張するわけです。
わたしたちは、時間が過去から未来へ水平に流れて行く中で生きています。
過去から未来への一方通行です。
彼ら−自分のエゴのことです−は、非常に狡猾で賢いので、この時間の流れを根拠に、過去あったことを以って未来を予測するのです。
しかし、実存するのは、自我意識(エゴ)という記憶(ほこり)のない、「わたし」だけですから、実在するのは、『今、ここ』の「わたし」しか居ないのです。
結局、『今、ここ』の、「わたし」しか、行動することは出来ないのです。
四階の席に座っている、「わたし」しか実在しないのです。
ところが、この、「わたし」の立脚点は、『今、ここ』であるのに、観点が、『次、あそこ』という未来になっている為に、『今、ここ』しか居ることの出来ない、「わたし」は役に立たず、その隙を狙って、非実在の、「私」が登場して来るのです。
そして、観点の位置が遠ければ遠い程、それを見るには、『今、ここ』の位置との落差が必要になります。
見る位置の視線と、見られる位置の視線が水平では、そんなに遠くを見渡すことは出来ません。
見る位置を高くすることによって見渡すことが出来ます。
ところが、見る位置の高さというのは、見られる位置との落差でありますから、高い所だけではなく、低い所からも見渡せるのです。
高い所からは見下ろす。
低い所からは見上げる。
同じ高さからは見渡せない。
自我意識(エゴ)が狡猾で巧妙なのは、常に絶対これだけと言わずに、選択肢を与えて罠を仕掛けるところです。
その結果、わたしたちは、『今、ここ』にしかない立脚点から、低い所へ下りて行くことを選択してしまい、そこから観点を見上げるわけです。
下に下がれば下がる程、遠くの観点を見上げることが出来ます。
その高低の位置が変化する度に、またまた新しい「私」が登場して来るのです。
従って、複数の「私」というのは、『今、ここ』に居る「わたし」の高低の程度によって、どんどん誕生するものだと言うことを理解しなければなりません。
この、「わたし」の『今、ここ』における立脚点の高低が、所謂、精神性の高低になるのです。
従って、精神性が高いのが、「わたし」であって、精神性が低いのが、「私」であるのではないのです。
精神性が高いのも、低いのも、「私」であり、「わたし」は唯『今、ここ』に居るだけです。
それが、四階の唯一つの席に座っている、「わたし」なのです。
「わたし」と「私」の位置関係を何処に置くか。
「わたし」を見下ろす所に「私」を置くか、「わたし」を見上げる所に「私」を置くか、それは個人の主観に委ねるしかありません。
三階に居るか、五階に居るかの問題ですが、四階が本当の自分の座る席であることだけは忘れず、三階と五階を往来する途中に四階に立ち寄ることです。
生きている間、悟ることなど不可能で、ただどれだけ近づくことが出来るかだけだと、わたしが強調する所以です。