Chapter 75 すべては「私」の所為

「わたし」という宇宙意識と一体になった意識も、もちろん個別感覚はあるのですが、足が地についた感じであると言えばいいでしょう。
「あの人は、地に足がついてなくてふらふらしている」
という表現を使いますが、「私」という意識は、氷山のように海に浮かんでいるので、海流や風によって放浪しますが、「わたし」という意識は、島のように海面上では浮かんでいるように見えても、海面下では大陸などの陸地と繋がっていますから、しっかりと根づいています。
「私」という意識状態に居ると、海流や風、つまり外部環境の変化で放浪つまりふらふらと不安定な状態になります。
「わたし」という意識状態に居ると、どんな外部環境の変化があっても、たとえ島自体が火山のようなものであって爆発自滅したとしても、海面下では陸地としっかり繋がっているからふらふらした不安な気持ちには絶対ならないのです。
人間が生きて行く中で味わう四苦八苦は、すべて、「私」という不安定な氷山のような意識状態に居ることが原因であるのです。
強い風が吹いて不安に思っていると勘違いしているだけで、外部環境が四苦八苦や不安、悩みの根本原因ではないのです。
地に足がついた意識状態、つまり、「わたし」の意識で居れば、たとえ強い風が吹いて病気になっても、流れの強い海流が襲って来て、借金の取りたてに来られても、ビクともしないのです。
人間が生きて行く上での問題はすべて、実際には地に足がついた島であるのに、ぽっかり浮かんだ氷山だと思い込んでいる錯覚に原因があるのです。
では何故、陸地と繋がった島である、「わたし」であるのに、ぽっかり浮かんだ氷山だと勘違いしている、「私」で居るのでしょうか。
四階の席が、自分の人生の実舞台を観ることが出来る唯一の席であるのに、三階の席や五階の席を往来している。
更に、三階や五階の席に座っても、そこからは本来の現実の世界である舞台が見えなくて、背景画面だけが見えるので、うっかり背景画面に同化してしまって、席に座って鑑賞している、「わたし」を見失っている。
その背景画面に同化している自分の映像が、まさしく、ぽっかり浮かぶ氷山である、「私」なのです。
象徴的に説明しましたが、客観的に申しますと、四次元時空間世界に実存している、「わたし」なのに、三次元立体空間で時間に支配されたり、五次元絶対宇宙で時間を支配しようとしたりして、存在し得ない妄想に駆られている、「私」を自分だと思っているのが、すべての原因であるのです。
つまり、明日という未だ来ぬ未来や、昨日という過ぎ去った過去に執らわれて生きている自分は、「私」であって、『今、ここ』という時間が止った、別の表現を使えば、永遠の時間に居る、四次元時空間世界に居るのが、「わたし」であると認識することです。
未だやって来ないことで取り越し苦労をし、過ぎ去ったことを引き摺って持ち越し苦労している、「私」という自分にすべての悩み、不安、四苦八苦の原因があることを、ここではっきりと肝に銘じることです。
変な爺々が突然目の前に現れて、天国だった世界が急に地獄になる。
嫌な女御が思いもかけない時に現れて、薔薇色の世界が真暗闇になる。
こんな時、わたしたちは、『何故?!』と叫んで、変な爺々や、嫌な女御の所為にしてしまいます。
『今、ここ』という、四階の独りだけの席に座って舞台を観れば、変な爺々や、嫌な女御が映っている背景画面は、ぱっと消えて、気の良い爺さんや可愛いい女性が背景画面に映っていることに気がつくでしょう。
実は、背景画面に映っているのは、爺さんや女性であって、「変な、嫌な」気持ちは、自分が思い込んでいるだけのことであることがわかるのです。
善意を持つのも、悪意を持つのも、すべては自分の所為であることを知ることです。