Chapter 7 心の洗剤・負夢

夢のもっとも大事な意義は心の浄化にあることは何度もお話しました。
眠りは心身の疲れを回復させる為にあるのが通説です。
そこで、表題になっている「夢の中の眠り」とはどういう意味なのかが少し見えて来る筈です。
夢と眠りとの関係について説明して行きたいのですが、わたしの胸の辺りでは、既にこのChapter7の結論は出ているのに、このニュアンスを言葉で、活字で伝えなくてはならないのが極めて苦痛に感じるのです。
最近とみに活字で伝えることの無力感に苛まれることが多いのは、やはり「真理を語ることはできない。語ることのできることは真理ではない」ことを痛感しているからのようです。
Chapter7の題が、「心の洗剤・負夢」。
この題名だけで、わたしの伝えたいことが、「わかるでしょう?・・・・のような感じのことを言いたいのです」と受けとめてもらえる読者−読者でなくて聴衆でないと無理かもしれません−にしか伝えられない。
そう思いつつ気を取り直して、何とか活字を探してみましょう。
うん!・・・・・・これは気合を入れているのです。
まず、心身の疲れを回復させる眠りについて考えてみることにします。
眠りのメカニズムでは、まず肉体の疲労を回復させるために熟睡と言って夢を観ない、深い眠りを1時間する。
次に精神の疲れを取るためにREM睡眠と言って夢を観る浅い睡眠を30分する。
1時間と30分の2種類の睡眠が1サイクルになっているのが睡眠の基本であるようです。
従って、夢を観ている時間は、眠っている時間の3分の1だと考えられています。
睡眠をしている人の脳波を測ることによって、深い睡眠、浅い睡眠がわかり、浅い睡眠の時、その人の瞼がピクピク動くことからREM睡眠と言うのですが、瞼の動きは、目の網膜というスクリーンを追いかけているから動いているのです。
二台ある映写機のうち内面映写機が動いていて、その映像を追いかけているから瞼がピクピク動いているという訳です。
理屈としてはよくわかるのですが、それでは熟睡の間は夢を観ていないことになる点が納得できないのです。
人間は目が醒めていても、眠っていても、四六時中夢を観ているのであって、眠るから夢を観るというのではない。眠っている間は意識が希薄になっているから夢がはっきりと見えるだけのことで、目が醒めている時でも夢を観ている。
これが、わたしの結論です。
それなら、目が醒めることによって夢が終わるのでないということになります。
劇場で夢という映画を観ているのですが、途中で劇場の電灯がついてスクリーンに映像は映っているのですが、見難くなってしまっている。
そこへ、アイスクリームや飲み物を売りに来たり−最近そんな風情はなくなって、自分で劇場の外へ買いに行かなければならないようです−トイレに行きたくなって途中の映画を観ずに中と外を頻繁に出入りしたり、放映されているにも拘らず、ほとんど外へ出たきりになっている。
このような状態が、目が醒めている時のわたしたちの行動パターンですが、夢という映画は続行されているのです。
映画が自分の一生であるのですから、見過ごすと自分の一生の一部若しくは大半を知らないまま人生が過ぎて行くのです。
それでは、自分の人生を生き抜いたことにはなりません。
自分の人生という映画は、途中で予告編と宣伝映画を挟んで次から次へと作品が放映されていく無制限連続バラバラ1本立て映画であるのです。
そして、予告編と宣伝がまさに負夢であるのです。
負夢が、訳のわからない、現実離れした内容であるのは、予告編であり宣伝であるのですから仕方ないのです。本編のようには行かないのです。
しかし、無制限連続バラバラ1本立て映画をずっと観ていると頭が変になります。
そこで頭が変にならないように、精神の洗濯をしてくれるのが、予告編・宣伝映画である負夢なのです。
従って、本編が始まったら、予告編や宣伝はすぐに忘れ去られてしまうのです。
負夢が心の洗剤と言う意味を、ここにやっと表現できました。
書くという限界を感じます。