Chapter 63 充実した人生

わたしたちは、日々充実した人生を送りたいと願って生きています。
では充実した人生とは、どんなものなのか、それぞれ各自みなさん明確に言えることが出来るでしょうか。
言える人は、充実した人生を現に送っている方でしょう。
ほとんどの方々は、漠然と思っているだけで、はっきりと思っていない点に最大の原因があることを理解して欲しいのです。
何故なら、そういう方々の思いは、自己の中心にしっかりと根づいている本当の自分の想いではなく、その周辺に屯する自我意識(エゴ)の思いであるのです。
そして、エゴの思う特徴は、常に茫漠としていることです。
エゴの思うことは実体の伴わない内容で、正夢を観ている状態で、目が醒めているようなものです。
白昼夢に占領されている状態と、ほぼ同じであるのです。
結果、夢遊病者のように、寝ても醒めても茫漠と生きていくことになります。
本当に生きているということは、今、自分は何をしているかをはっきりと意識しているかどうかに尽きるわけです。
何をしているかの内容ではなく、はっきりと意識していることに意味があるのです。
そうしますと、日々継続していることしか意識出来ないことがわかってきます。
つまり、人間の生き方には2種類あって、日々を偶発的に生きるか、本質的に生きるかしかないのです。
エゴが占領した生き方は、偶発的であります。
何故なら、エゴのエゴたる所以は、常に白黒をはっきりさせたいとする思いでありまして、エゴの巧妙な点は、白黒はっきりさせたいと言っておいて、実は灰色のグレーゾーンを巾広く張り巡らす狡猾さにあるからです。
自分の現状以上のことを常に熱望して止まない心のうごめきこそエゴの実体であるのです。
本質的に生きるとは、他の動物がそうであるように、全体の一部である自己を認識した生き方であるわけで、部品としての機能を果たしておればいい、実に単純な作業なのです。
エゴは単純とか、平凡とかを嫌います。
『自分だけは特別だ!』と思っていたいのです。
わたしが、日々の継続が生きる上において、最も大事であると主張して止まないのは、日々の継続が単純さを生み、平凡さを生むからであって、その単純さ、平凡さが、充実した人生を送る上においての最大の障害である、『自分が、自分こそが、自分だけが・・・・』と思う自我意識(エゴ)にとって天敵であるからです。
本当に充実した人生を送りたいなら、単純な平凡な人生を送ることです。
その為には、日々継続する習慣を持った生き方をすることです。
四階の席からしか見えない実舞台の芝居は、日々継続している事柄であるのです。
充実していると想うのは、日々継続の芝居の背景画面が、継続の効果性を予見してくれていることから来るわくわくとした想いに外ならないからであります。
日々継続する作業の中で最も本質的なものは、生きる糧を得る上での作業(つまりこの世的仕事)であります。
みなさんは、『それなら、会社に30年継続して勤めていることは立派な日々の継続だ!』と胸を張って言われるでしょう。
では、みなさんに質問します。
「それでその継続の効果性はどうだったでしょうか?」
「充実したものだった!」と答えることが出来る方は幸いであります。
今、高齢者問題が社会問題だと言われています。
何故でしょうか。
継続の効果性があったなら、高齢者問題など起きようがない筈です。
生きる糧を得る為の、日々のお勤めが継続作業ではなかったことになります。
それでは充実した人生とは到底思えないのは当然でしょう。