Chapter 57 気持ちの持ち方

気持ちの持ち方次第で、わたしたちの生きている世界は天国にも地獄にもなる。
この考え方自体は、実に一般的且つ普遍的なものとして、わたしたちは捉えています。
心の勉強などまったく興味のない人たちであっても、そう思っているのではないでしょうか。
信仰はもちろんのこと、正月でも神社・仏閣などに絶対に行かない、徹底した唯物主義的な日本人ですら、この考え方にはある程度理解を示すのではないでしょうか。
却って、信仰心の過度に強い唯心的な人の方が、自分の神や教祖を信じ込む余り、考え方に柔軟性がなくなって、自分の気持ちよりも、信じる神や教祖の言葉を絶対的なものと捉える偏狭さを持っていることが多いと思います。
宗教戦争などは、その偏狭さと、考え方の柔軟性の欠落が原因であることは疑う余地の無いところであります。
そうしますと、まともな精神と心を持った人間であれば−偏狭な信仰心を持っていない人たち−自分の気持ちの持ち方次第で、人生は天国にも地獄にもなることを信じている筈です。
「それは頭ではわかっているのだが、いざ現実となると、そうはいかないんだ」
大抵のみなさんは、そうおっしゃるでしょう。
一体、いつ、どこで、そういう考え方を知ったのでしょうか。
また、その考え方に共鳴したのでしょうか。
また、その考え方に納得したのでしょうか。
頭ではわかっているということは、知り、共鳴し、納得したことに外ならないのです。
わたしは、この日本は実に特殊な国であるように思えてなりません。
キリスト教やイスラム教のような偏狭さと排他性を持った人たちだけで、63億人のうち半分近くを占めていることが、人類から戦争が絶えない最大の原因だと思うのです。
一方、日本人は、彼らのような一神教に偏ったりはしないで、信仰の自由を楽しんでいるように思えてなりません。
だから、信じられない程多くの新興宗教が存在し得ているのだと思うのです。
宗教団体を転々とする人たちが一杯いる日本。
キリスト教国やイスラム教国の人たちからすれば、信じがたい光景でありましょう。
結局の処、信仰の自由性を知っておるのです。
その根本には、冒頭で申しました、気持ちの持ち方次第で天国にも地獄にもなるという考え方を一番信じているからではないでしょうか。
「本当の自己を見つける」
これが、わたしの人生のテーマであります。
本当の自己こそ内在する最善の神の概念だと、わたしは思います。
自己に内在する自分だけの神や教祖を信じる、つまり自分が教祖であり且つ信者であるのが、信仰・宗教の根本であるのではないでしょうか。
気持ちの持ち方次第とは、まさにこの考え方を平たく表現しただけのことであります。
日本人は、このことをよく理解しているのではないでしょうか。
では最初に戻りますが、一体、いつ、どこで、そのことを知ったのでしょうか。また共鳴し、納得したのでしょうか。
わたしたちは、どうやら夢の本質を見抜く力を有していたように思えてなりません。
わたしは、子供の頃、眠りに就く前に観たい夢をイメージしていました。
そうすると、そのイメージした夢が眠りの中で現れて来るのです。
眠りに就く前の寝床が、わたしの実在する舞台であり、観たい夢をイメージすることで、背景画面に映る映像の現像フィルムを録画していたのです。
無知ではありましたが、自己に内在する神の存在を知っておったからだと思うのです。
間違った利他心は、独善、偽善を生みます。
キリスト教やイスラム教を信じる人たちは、それこそイエスが言った、「彼らは、自分が何をしているのかわかっていないのです」の彼らであるのです。
背景画面と舞台のそれぞれの本来性を正しく理解すれば、わたしたちは四階の席で、自由を満喫しながら、自分の人生を演じ、演出することが出来るのです。
それこそ、天国の人生であります。
いくらお金がたくさんあっても、権力者になっても、有名になっても、心の自由と平安がなければ、地獄の人生であります。
逆に言えば、お金をたくさん持つほど、権力を持つほど、有名になるほど、地獄の人生にころげ落ちていくのです。
自分だけの劇場で、独り自由に演じ演出する人生を送ることです。