Chapter 50 『今、ここ』が吉日

わたしは、14才の時に自己改革に取り組んだ経験があります。
それまでの自己をすべて否定する人生のスタートを切ったわけです。
意志の人生と言ったらいいでしょうか。
とにかく、身体で反応することを悉く否定して、その反対の行為を、即行動するという生き方に変えたのです。
朝5時に起きる。
そして、決めたメニューの運動を必ずこなす。
メニューの内容は年齢を重ねる毎に変化して行きましたが、今でも続けています。
心房細動という持病の根が、この時にできたのだと思います。それほどに激しいメニューの運動であったからです。
それから次に自己否定の改革をしたのは、28才の時でした。
14才の時が、肉体を酷使しての自己改革であったのに対し、28才の時は、精神の自己改革でありました。
読書三昧の生活をスタートしたのです。
主に形而上学の本を読み、小説のような本は殆ど興味がなかったのです。
その習慣も、今でも続けています。
身体と精神の自己否定をした上での新しい自己の誕生をしてきたのです。
考えてみれば、今こうした執筆活動が出来るのも、肉体と精神の自己否定の体験に依る処が大だと思います。
わたしは、今56才です。
14才、28才の次は56才です。
三度、自己否定による自己改革に着手する年齢であるように思います。
14才の時には、1日を24時間と捉えずに8時間と捉えた生き方に変えました。
28才の時には、それまでの1日を8時間と捉える生き方から16時間と捉える生き方に変えました。
従って、56才の今、1日を24時間と捉える生き方にかえようと思っているわけです。
8時間、16時間、24時間というのは、自己の意志で生きて行く時間を言っているのです。
ここまで来ると、自我意識(エゴ)である「私」が本当の自己である「わたし」を否定する余地は無くなり、生まれてから7才までの間に植え付けられた自我意識の「私」を、生まれた直後つまり0才の時の本当の「わたし」が全面否定できるのではないかと思うのです。
やっと、本来の自分を、頭ではなく身体で以って自覚できるのではないかと、わくわくさせておるのです。
昨日まで続けてきた−惰性で生きて来たと言った方が適切でしょう−生き方を変えるのは困難なことであるように思われるでしょう。
しかし、困難にしているのは外ならぬ、自我意識の「私」であるのです。
実は、死ぬということは、この「私」が死ぬことであり、宇宙意識と繋がっている「わたし」は、川の水が大海に流れ出て一体になるのと同じように元へ戻るだけのことなのです。
川を流れる水が「私」の一生であり、夢の中で生きてきた「私」であるのです。
川の源流から大海に流れ出るまでが、わたしたちの無制限連続バラバラ1本立て映画であるのです。
その中で、いつかは大海に流れ出るまでの芝居が実在する舞台であるのです。
川が消えるまでを一生と捉えるか。
これが、「私」の一生であります。
川が大海と合流するのを一生と捉えるか。
これが、「わたし」の一生であります。
捉え方の違い、しかもちょっとの違いで、「私」の一生か、「わたし」の一生かが決まるのです。
それでも、あなたは、「私」の一生を続けるつもりですか。
背景画面の夢を一生として生きて行くか、背景画面の夢を舞台の状況に応じて変化させながら、舞台の芝居を演出し、且つ演じて行く一生を生きて行くか。
それは、自我意識の自己(?)否定に依る自己改革の一生を、決断と意志を以って生きて行くことによって可能になると思うのです。
そして、『今、ここ』がスタートの吉日であります。年齢には関係ありません。