Chapter 49 真の自己(?)否定

わたしたちは、ほとんどの情報を見るという行為で得ますが、その情報は先ず目から大脳に運ばれます。
そして大脳の新皮質(New cerebral cortex)にデータ(記憶)として蓄積されます。
ここまでが頭の知識です。
因みに、本能的欲望も見るという行為から生じるのですが、これは大脳の古皮質(Old cerebral cortex)に運ばれます。
ところが、古皮質の司る本能的欲望が身体の各器官に神経を通じて伝達され、各器官が本能的行動をする前に、人間だけにある新皮質は、善悪の判断をするわけです。
この善悪の判断に、新皮質に蓄積された知識というデータ(記憶)が基準として使われるのです。
この働きを、わたしたちは、「心」と言っているのです。
あらゆる宗教が、本能的欲望を抑えることに重点を置いている理由は、善悪の判断をする心で以って、身体の各器官に伝達される本能的欲望エネルギーを、もっと高レベル−つまり悟りへの欲望と言った−の欲望エネルギーとして使用しようということなのです。
つまり、清い心、汚れのない心、悟った心、解脱の境地・・・と言った状態は、本能的欲望エネルギーをもっと高度な自己実現エネエルギーに変位させたものと捉えているわけです。
しかし、わたしは思うのですが、本能的欲望が程度の低いエネルギーで、自己実現エネルギーが高度なエネルギーと一方的に判断して良いのでしょうか。
結局の処、それは新皮質の機能である善悪の判断に因るもので、善悪の基準の本質は二元論にあるのであって、人間の勝手な好き嫌いで決められたものではないということに帰結しなければなりません。
つまり、善悪の判断とするのではなく、単に二元論として捉えるべきだと言っているのです。
愛することは善であるが、憎むことは悪であると、わたしたちは信じてきました。
二元論では、愛することができるのは、憎むことができるからであって、憎しみの無い愛は無いわけです。
わたしたちの住んでいる三次元空間世界は、すべて二元論に支配されています。
従って、二元論から逃れることはできません。
それなら、愛することは善で、憎むことは悪であるという判断は、宇宙の法則に則していないことになり、法則に則していないことは絶対に通用しない世界であるのです。
絶対に通用しないことを、通用させようとして生きているのが、わたしたち人間であって、悩みや不安の根源的原因もそこにあるわけです。
新皮質というものを与えられた人間は、悩み、不安といった厄介なものを肩にずっしりと乗せて生きていく宿命を与えられたのです。
それなら、いっそのこと他の動物と同じように、本能の赴くままに生きればいいと思うのも一考でありますが、逃れることの出来ない二元論から逃れる方法がひとつだけあるのです。
それは三元論に飛躍することです。
二元論の本質は、善と悪は表裏一体という捉え方であります。
従って、善と悪は表裏一体、という捉え方を理解して受け入れるか、無知のままでいるか、どちらかしかわたしたちの取るべき道はないのです。
ところが、わたしたちは、善悪を判断して善を受け入れ、悪を拒絶するといった間違った二元論で生きているのでありますから、当然、意識が分裂状態に陥るわけです。
実は、善と悪は表裏一体、という捉え方を理解して受け入れることが三元論に飛躍する道であり、無知のままでいるのが、他の動物のような一元論の世界で生きる道であるわけです。
わたしたちは、生まれてから長い間、間違った二元の判断に慣らされてきました。
二元の判断をせずに、二元両方を受け入れる習慣をつけるためには、間違った習慣を一枚一枚剥がしていかなければなりません。
脳以外の記憶装置を機能させるには、いま申し上げたことを先ず理解しておかないと、前に進むことはできません。
間違った習慣を一枚一枚剥がす。
今までの自己の否定でありますが、みなさん出来るでしょうか。
それが出来なければ、本当の自己でない、複数の自分といつまでも付き合って、悩み、不安を永遠に持ちながら生きて行くしかありません。