Chapter 42 自己否定からの脱却

わたしたちは、気がつかない内に自己否定して生きていると申しました。
自己否定することこそ、複数の自己があり、本当の自己があることでもあり、そうでない自己もあることの証であるわけです。
否定するには、否定する対象がなければならないはずであります。
従って、「自己否定」という言葉は本来存在し得ないわけです。
ところが、わたしたちは矛盾を感じずにこの言葉の存在を受容して来たのです。
つまり、複数の自己が内在することを受容して来たわけです。
「愛」と言う言葉が、すべての宗教において重視されているのは、「愛」の本来性は自己を愛することにあるからです。
他人を愛することは、自己を愛することから発生する副次的な現象であります。
「隣人を愛せよ」は、イエスの数少ない言葉のひとつですが、イエスが言ったのは自己を愛してこそはじめて隣人を愛せると言ったのであります。
イエスは、キリスト教・教義の根本になっている原罪、贖罪の死、そして復活というような教えなど一切していません。これらの概念をつくったのはパウロとパウロの書簡の偽作をおこなった者たちによって広められた現代キリスト教であることは、広く神学者の間で常識となっています。
従って、「隣人を愛せよ」とイエスが言ったのは、自己を愛することが基本にあることを忘れてしまった人間に対する目覚めの警鐘であるのです。
だからお釈迦さんは、「愛」と言わずに「慈悲」と言ったのです。
自己否定。
気がつかない内に自己否定をしているわたしたち。
一体いつ頃から自己否定しだしたのでしょうか。
記憶が誕生した時が、そのはじまりであります。
記憶のはじまりとは、真っ白な白板に真っ黒なチョークで条件づけを−キリスト教ではこの条件づけを戒めと言っているだけですー書かれた瞬間(とき)です。
もちろん、自分を産んだ母親のチョークによって書かれたのです。
ペットブームになっているようですが、自宅で飼っているペットは犬でも猫でもありません。
犬や猫の姿をした人間であるのです。
そして飼い主は、彼らにも同じようにチョークで戒めという条件づけを書いているのです。
だから彼らは夢を観るようになったのです。
野生の動物にとっての戒めは自然の掟であって、それは自己が誕生するずっと前から本能的に有しているもので、誕生してから与えられる戒めなど持ち合わせていないから夢など観ることはありません。
人間の生きる苦しみの根源は、生まれて3年から5年乃至は7年の間に決まってしまっているのです。
その間に、もうひとり乃至は複数の自分が誕生して、本当の自己を否定しだしたのです。
自己否定する張本人は、条件づけによって社会が受容できるような人物像を描かれた結果誕生を許され、その後一生付き合っていく名前を持ったわたしたちであるのです。
本当の自己は、母親の胎内で誕生した名無しの権兵衛のわたしたちであるのです。
自我意識(エゴ)と言われているのが、まさしく名前のついた、所謂わたしたちが、「私」と思っている本人であるのです。
エゴにとって、もっとも忌むべき存在が、名無しの権兵衛のわたしなのです。
従って、「私」は自己否定せざるを得ないのです。
「私」から名無しの「わたし」に帰ることによって、自己否定しないで、自己を愛することのできる「わたし」になり、そうなってこそはじめて他人を愛する「わたし」になれるのです。
男女愛、特に夫婦愛が脆くて壊れやすいのは、自己を愛せない同士なのですから当然の結果であるのです。
先ず、自己を愛する自分を取り戻すことです。
それが無理でも、主観100%の自分から、100%客観は不可能ですが、100%客観に少しでも近づこうとする自分づくりの努力をすることです。
その態度・姿勢が平等・公正の精神であります。