Chapter 35 清水の舞台

実在の世界を体験するには、どうしたらいいのかを考えてみたいと思います。
三階と五階の間を往来している間に通過する四階に立ち寄ればいいわけで、それほど難しいことではありません。
一番厄介なことは、わたしたちの理解度の問題であるのです。
先ず、わたしたちが生きているこの現実の世界が、実は肉体の目を通して見る単なる映像の世界である。
その次に、映像を観て生きているわたしたちは、それぞれ自分ひとりだけの世界に生きている。
更に、それぞれ自分ひとりだけの世界が三階から五階構造になっている劇場のようなもので、日々、三階と五階を往来しながら映像を観て生きている。
三階で映像を観る自分と五階で映像を観る自分は唯一無二の自分であるのに、三階で観ている映像と五階で観ている映像とが、観る観点(角度)が違う結果、それぞれの観た映像に同化しているため複数の自分がいる錯覚に陥っている。
従って、三階と五階を往来している唯一無二の自分の存在を認識せずに、三階にずっと留まる自分と、五階にずっと留まる自分がいる結果、四階の存在を知らない。
要するに、わたしたちは、行動していることと、考えていることが違う錯覚の中で生きているのです。
正しく行動しているのに、正しく認識していないのです。
誤認という錯覚が、わたしたちの人生を根本的間違いに導いていることを理解しなければなりません。
理解することによって、自分が日々正しい行動をしていることを自覚すればいいわけです。
日々考えていることが、如何に錯覚であるかを知ることです。
日々生きていることが、如何に正しいかを知ることです。
考えることが、すべてを狂わせているのです。
何故なら、わたしたちは、考えると過去か未来の世界に自己を置く結果、唯一行動できる、今、ここを逃してしまうからです。
行動する(できる)のは、『今、ここ』しかない。
考えるのは、『今、ここ』以外でしかできない。
考えることが、すべての原因であるのです。
ところが、わたしたち人間だけが考える能力を持った結果、これだけの科学の進歩を果たすことができたのですから、今更、考えることを止めて生きるわけにはいかなくなってしまった。
他の生き物たちは厳しい自然の中を生きているにも拘らず、わたしたちのように不安や悩みを持って生きてはいないのは、考えて生きていないからです。ただ、『今、ここ』を生きているだけなのです。
草食動物が肉食動物に食い殺される時は、食い殺されるのです。食い殺されることが悲しいわけではないのです。
肉食動物が草食動物を食い殺す時は、食い殺すだけなのです。食い殺すことが楽しいわけではないのです。
わたしたちが、食卓で肉や野菜を食べている時はただ食べているだけです。
わたしたちが、植物をむしったり折ったりするのに罪悪感など持ってはいません。
それなのに、同じ人間を殺したりすると罪悪感を持つのは道理に合いません。
これすべて、考えていることと、行動していること、の錯覚から起きているのです。
考えたことは、即行動する。
行動したことしか考えない。
色即是空、空即是色、是即羯諦羯諦であります。
羯諦とは、清水の舞台から飛び下りる、ジャンプのことであります。
ジャンプしてふと足下を見ると、そこは四階の実舞台が見える実在の世界であるのです。
ところがジャンプしたら足を折る、頭を打って死ぬと思っているのが、わたしたちであるのです。
それなら、清水の舞台は要らないのです。
勇気を持って、錯覚の人生をいい加減止める決断をすることです。