Chapter 27 知ること・信じること

夢を観ているのは、生死の繰り返しの中での死へのステップであるのですが、これは言い換えれば円の回帰する瞬間でもあるわけです。
人生80年を1回の生死のサイクルとすれば、80年で1周の円回帰であり、夢と覚醒を1回の円回帰とすると、1日が1周の円回帰となります。
従って、毎日の夢と覚醒の円回帰を繰り返しながら、80年という周期の円回帰をして人間は一生を終えて行くわけですが、これは、著書、「神はすぐ傍」の中で一番のエッセンスである、1日と1年という円回帰が時間の基本である、とお話したことに通じるのです。
わたしが、「人間の一生は、死ぬことによって醒める夢物語である」と主張して止まない点であります。
しかし、わたしたちは、死は必ずやって来るということを信じられなくて、一生を永遠のものと思って生きているのです。
わたしたちの心というものは、実に厄介なもののようです。
知っていることを信じない癖を持っているのです。
生まれた限りは死ぬということを、大人になった人間はみんな知っていますが、信じてはいないのです。
結局の処、知っていると言っても、実際には何も知らないのです。
だから死を恐れるのではないでしょうか。
死ぬまで死ぬことを知らないし信じていないのが、わたしたち人間であるようです。
そこで一日を振り返ってみると、夜眠りに就くのは死へのステップであり、朝目が醒めるのは生へのステップであるのですが、一生というサイクルの中での生死に比べて、一日の中での生死のサイクルは当然のことながら短いわけです。
夢で喩えたように、夢と覚醒の繰り返しになると、更に生死のサイクルが短くなり、息の呼吸になると、生死のサイクルは、ほぼ毎瞬間のサイクルになるのです。
つまり、毎瞬間、わたしたちは生死を繰り返しているわけです。
では何故死を恐れるのでしょう。
毎瞬間息をすることによって生死を繰り返しているにも拘らず、どうして死を恐れているのでしょう。
先ず、一生における最後にやって来る死だけを死と思って、毎瞬間の息の呼吸を死生の繰り返しだとは思っていないからでしょう。
繰り返しだから、死んでもまた生がある安心感がある。だから毎瞬間死がやって来ることに恐れないのです。
ところが一生における死は最後の死であって、次の生がやって来るかどうかわからないから恐れているのです。
それが生きている人間であるのです。
それでは、輪廻転生を人間は信じているのでしょうか。
毎瞬間の生死の繰り返しを経験しているのですから、輪廻転生は必ずあると確信すればいいのに、そして輪廻転生を確信しているなら、一生の死を恐れることはない筈なのに、何故死を恐れているのでしょう。
悟りを開いた聖人は死に臨んでも淡々としている。
果たしてそうでしょうか。
生きている間に、人間は悟りを開くことが出来るのでしょうか。
ますます疑問が湧いてきます。
人間だけには、知性という能力が与えられている。
この知性とは、信じることを出来なくする不能薬のような気がしてなりません。
一生の死。
毎日の死。
毎瞬間の死。
死を知ることと、信じることの矛盾に対する解答は、この時間のキメの粗さに関係するように感じるのです。
そして時間のキメの粗さが、夢と覚醒の繰り返しのサイクルのキメの粗さでもあると、わたしは感じるのです。
その究極の処に、息の呼吸に呼応した夢と覚醒という毎瞬間があるように思えてなりません。
すべてが夢であり、且つすべてが覚醒である、今、ここ。
その時、わたしたちが生きている二元論の世界を超えて、三元論の世界つまり絶対一元論の世界に回帰するのではないでしょうか。