Chapter 26 本当に核心に迫る

あまり厳しいことを言っておると、どなたにも読んで頂けなくなりますので、締めつけを少し緩くしたいと思います。
よく考えれば、「神の自叙伝」、「神はすぐ傍」と、「神」という言葉を標題にしただけで、拒絶反応を示す方々が世の中の半数以上、いや大半を占めておられることが再確認できた時点で、人間というものに対する認識を改めなければいけなかったのです。
そう思ったからこそ、「夢の中の眠り」という標題にして、極力難しい語彙を避けてきたつもりですが、結局、意味がもうひとつよくわかっておられないようです。
人間が生きているということは、我々の宇宙が誕生したことと同じであり、その最小モデルであるのです。
従って、人間が死ぬということも、宇宙が死ぬことと同じであるのです。
もっと平たく言えば、運動が始まった状態が生まれたということであり、運動が静止した状態が死ぬということなのです。
では運動しているということはどういうことかと申しますと、究極のところ息をして、夢を見ていることに収斂するのであります。
生まれるということは息をすることであり、死ぬということは息が静止することであると言っても過言でありません。
それともうひとつ。
眠っている間も息を無意識にしています。
すなわち四六時中無意識のうちに息をしているから、わたしたちは生きておるのですが、それは夢を見ているからなのです。
息をするということは、夢を見ていることに外ならないのです。
息は生死を繰り返しているのです。
息を吐くということは死ぬことであり、息を吸うということは生まれることであるのです。
夢を見るということは死ぬことであり、夢から醒めるということは生まれることであるのです。
従って、生きているということは、運動していることで、その運動とは息をすることと、夢を見ることに尽きるわけです。
息と夢。
それが生きている証であるのです。
「心の旅の案内書」で、「息」と「夢」のことをかなり詳しく書きましたが、いずれは「息」と「夢」について、更に詳細な検証が必要になると思っていました。
そういう中で、「夢の中の眠り」を書き始めたのです。
今まで、夢から醒めなさいと言い続けてきました。
それは、まさに、生きなさいと言っているのです。
実は、わたしたちは日々生死を繰り返しているのです。
息においても、生死の繰り返しなのです。
つまり、生死の出来事が常に身近で起きているのです。
それなのに、わたしたちは死ぬことによっておよそ80年間の一生が終わると勘違いしているのです。
それが人間に生きる苦しみを与えている原因に外ならないのです。
実は、毎瞬間、わたしたちは生まれては死んでいるのです。
しかし、息をしていることに無意識であるのと同じように、それに気付いているものはいないのです。
夢を見ているのは、息を吐いていることと同じです。
夢から醒めているのは、息を吸っているのと同じです。
息を吸ってばかりしていては、息になりません。
息を吐いてばかりしていても、息になりません。
吸って吐いてを交互に繰り返してはじめて息になります。
夢を見る、そして醒めるのも同じことであります。
ところが、わたしたちは四六時中夢を見ているのです。
まるで、息を吐いてばかりしているのと同じで、息を吸うことを忘れてしまっておるのです。
わたしは、夢を見てはいけないと言っているのではありません。
夢の実体を理解することが大事だと言っているのです。
夢ばかり見ていては生きることができません。
醒めてばかりでは死ぬことができません。
死生、息の呼吸、夢と覚醒。
両方で対になっているのです。
片方だけの理解では片手落ちであります。(この言葉は差別用語のようですが、わたしたちの生死に関わる大事な話をしている際に差別用語がどうのこうのと言っているレベルではないでしょう。死んだら差別など消えてなくなるのです)
従って、夢というものを深く理解して頂きたいのです。
趣味や道楽で、夢の話をしているのではありません。
どうかこの点をよく理解して頂いて次のステップに進んで欲しいのです。
人間であるとは、わたしがここで申しましたことを理解できる方に外ならないのです。