Chapter 200 心との別離

唯心的(Mental)なものは、わたしたちにはない。
あるのは、唯物的(Material)なものと非唯物的(Immaterial)なものであって、見えるものと見えないもの、既知のものと未知なものと言ってもいいでしょう。
ただ知るということの意味を誤解してはいけません。
単に知識として得たことは知るに至ったことにはならない。
知識として得たことが消化・吸収されてはじめて知るに至ったことになる。
食べたものがすべて血となり肉となるのではなく、口の中で噛み、胃で消化され、小腸で吸収され、肝臓でブドウ糖になり、ブドウ糖の蓄積された分が、はじめて血となり肉となるように、知識は単に口に入れた食べものだけに過ぎません。
それが最終的に血となり肉となるには多くのステップが要る。
いくら大食漢であっても太るとは限らない。
痩せの大食いもいるのです。
しかし、多くを食べないと血となり肉となることは有り得ないことも事実です。
知識を得ることは大事ですが、それを消化・吸収してはじめて知るに至ったことになるのです。
消化・吸収することが、実践による体験に外なりません。
痩せの大食いは、消化・吸収できないほど多くを食べ過ぎるから、血となり肉とならないのです。
消化・吸収できる程度に食べることが肝要なわけで、やはり適正な飲食と運動が大事だと言えるでしょう。
頭でっかちの人は、適正な飲食と運動をしないで、家に閉じこもって四六時中ひっきりなしに食べておる典型的お宅です。
この国は、そんな頭でっかちを優秀と履き違える癖を持っている。
お宅というのは、外部との接触を嫌います。
この島国も外部との接触を嫌います。
まさに国そのものがお宅ですから、根性もお宅になってしまっている。
それが島国根性と言われる所以です。
島国根性の典型が、頭でっかちのお宅であり、受験勉強に明け暮れているガリ勉たちですが、彼らがこの国を動かしているのだから厄介なのです。
本来の唯物的という意味は、体験によって知るに至った−このことを未知に対して既知と言う−もののことを指すのです。
非唯物的とは、未知のレベルにあるもののことを指すのです。
顕微鏡でないと見えないようなものを見るには顕微鏡が要る。
顕微鏡がない人間にとっては、それは見えないものですが、顕微鏡を持っている人間にとっては、それは見えるものです。
そうしますと、見えるものと見えないものの違いには個人差があることがわかってきます。
それが既知と未知の違いになるのです。
従って、唯物的と非唯物的の違いは、本質の違いではなくて程度の違いであることを認識しなければなりません。
唯心的(Mental)であることは土台無理とした理由がここにある。
肉体を持って生きている限り、わたしたちは唯物的(Material)にならざるを得ないわけで、唯物的になることさえ不十分であるから非唯物的状態に甘んじているのが、わたしたちなのです。
肉体のことに関しても殆ど未知な領域で生きているわたしたちなのに、未だ経験のない心との遭遇に想いを馳せても、それは恰も性に目覚めていない未熟な子供を誘惑しているようなもので、癌患者に風邪薬を与えて満足しているヤブ医者と癌患者のようであり、宗教団体の教祖と信者のようなものです。
『唯心的(Mental)なものなど無い』
『心など無い』
21世紀の人類のキーワードです。
確かに、わたしたちには想いがあります。
それを、心と言ってきました。
コンピュータは、わたしたち人間よりも遥かに計算能力は高いが、コンピュータに心があるとは誰も思っていない。
(思考)回路はあるが、それを心とは思っていない。
ただ性能のよい(思考)回路か、性能の悪い(思考)回路の違い、つまり程度の違いです。
それを、心というような、ボヤッ(Vague)としたものにして、未知(無知)さをカモフラージュしてきた。
その大役を果たして来たのが宗教であったと言っても過言ではありません。
ボヤッ(Vague)としたものがスカッ(Clear)となったら、心という言葉は死語になってしまうでしょう。
それが21世紀には実現されるように思えてなりません。