Chapter 20 舞台は夢の前

考えてみれば、自分の人生を自分以外の何かに委ねるというのはおかしな話であるのです。
たとえその何かが神であったとしても、やはり納得がいきません。
わたしはそう思うのですが、みなさんは如何でしょうか。
生まれて来るのは、自分の意思ではないことは確かですし、死んで行くのも自殺しない限りは自分の意思ではない。
更に、生きているのも自分の意思ではなく、宿命や運命によって定められているとするなら、一体自分という存在は何の意味を持つのかわかりません。
一方で、宇宙の法則下では、個という存在は全体の中の個でしか在り得ないわけで、全体の枠からはみ出て活動(運動)することも、存在することもできない。
従って、個の意思は認められていないとも受けとめられるのですが、それならいっそ最初から個など創造しなければよかったではないかと、わたしは単純に思うのです。
宇宙の法則には従わなければならないが、一定の自由裁量も与えられている筈であります。
いろいろな生物が、この地球上に存在するのも、水素しか存在しない太陽のような星もあるのと同じで、それぞれの存在意義がある筈です。
もちろん宇宙の生成発展の過程においてはすべては偶然的所産であっても、それは宇宙の法則に基づいた必然的所産でもあるのです。
不確実性原理が宇宙すべてに働いているのでしょう。
わたしたち人間という個的存在にも、分子、原子、素粒子、量子と同じように不確実性原理が働いていると考えるのが妥当だと思うのです。
そうしますと、一つの微小な量子にも意思があるように、人間にも意思があって然るべきであります。
他方、人間は意思を持って然るべきであるのに、意思を働かそうとしていないように、わたしには思えて仕方ないのです。
普段の生活パターンを振り返ってみると、自分の意思を発揮したと意識できたことがどれぐらいあるでしょうか。
まず一日の始まりである朝において、自分の意思を働かせておられるでしょうか。
眠りから醒めた時、自分の意思で起きているかということです。
会社に行かなければならないから起きている方が大半ではないでしょうか。
休日は普段のように起きずに寝坊を決め込んでおられる方々がほとんどではありませんか。それは、普段は自分の意思で起きていないことを証明しているのです。
一日の始まりにおいて、こういう調子ですから、言わんやその後の行動もすべて自分の意思ではないようですし、最後に眠りに就くのも自分の意思でない。
それなら、わたしたちは自分の意思などどこにも発揮していないで生きているではありませんか。
『これこそが、宇宙の法則に則して生きている証である』と堂々と言えるでしょうか。
わたしたちは、それぞれ固有の劇場で共有の映画を観ています。
共有の映画が、宇宙全体を表現している象徴で、宇宙の法則をわたしたち個に教えてくれているのです。
固有の劇場が、わたしたち個が、固有の自由裁量を認められている象徴です。
映画を観ることで宇宙全体のルールを認識した上で、共有映画を背景にした固有の劇場で固有の舞台を設置し、演出かつ演技をする。
使命を自覚した個としての真の生き方がここにあると、わたしは思うのです。
みなさんは、まず映画の存在意義を認識して、四六時中夢を観ておられるのでしょうか。
映画のスクリーンの前に個の劇場の舞台が存在している認識が有りません。
だから、人生は、自分独りの世界で生きていることすら知らないのです。
個の劇場の舞台が共有映画のスクリーンの前に存在していることを知れば、映画は飽くまで背景画面であり、自分が自由裁量で生きることができる舞台が映画の目の前に用意されていることを知るに至り、初めて生きる意義を知るのです。