Chapter 198 MaterialとImmaterial

目に見えるものを対象にするのが唯物的であるのに対し、目に見えないものを対象にするのが唯心的であると、一般的には区分けされています。
従来の概念だと、唯物的とは物欲が強くて、他人の心をまったく理解しない、自己中心的な資質ととられ、唯心的とは物欲がなく、他人に対する配慮、深い思いやりのある資質ととられ勝ちです。
唯物論がMaterialismであるのに対して、唯心論はMentalismと言われる所以です。
しかし、実際には前述しましたように、目に見えるものと見えないものに対する姿勢の違いであるわけです。
Materialに対してImmaterialですから、唯心的と言うより、非唯物的と言った方が適切でしょう。
日本語はわかりにくい言葉で、形而上学と形而下学などはその典型でして、どういう意味か非常にわかりにくい。
形而上学的をMetaphysicalと英語では言います。
形而下学をPhysicalと言います。
Physicalとは、肉体を指します−物理学という意味もあります−。
Metaという言葉は接頭語で、「・・・の後ろ」、「・・・の後」といった意味ですから、Metaphysicaとは、肉体の後ろにあるもの、つまり目に見えないものを意味する。
従って、形而下学とは目に見える世界を対象にした考え方、形而上学とは目にみえない世界を対象にした考え方ということになり、唯物的と非唯物的と置き換えてもいいでしょう。
わたしたちは肉体を持って生きているのですから、唯物的(Material)であることはできても、唯心的(Mental)であることは土台無理な話なのです。
唯物的(Material)に対し、非唯物的(Immaterial)でしかあり得ないのです。
肉体は死ぬと灰になって消えてしまうから、死後の世界を肯定するなら、肉体の後ろに何かないと困るわけです。
結局の処、死に対する考え方に帰結するのです。
死後の世界がある考え方が唯心論であり、形而上学であるのに対し、死後の世界など無い、死んだらそれでお終いというのが唯物論であり、形而下学と言っていいでしょう。
しかし、わたしたちが問題にしているのは、飽くまで生きている世界のことではないでしょうか?
生きている間は四苦八苦の連続だから、死んだ後は平和に暮らしたいと、生きている時に思えるでしょうか。
それなら自殺すればすべての四苦八苦は解決される筈です。
ところが、自殺することは殆どの宗教で禁止されています。
輪廻転生の考え方が必要になったのは、『この世は四苦八苦だが、あの世に行けば楽になれる』と希望を持たせ、『しかし条件があって、あの世で楽になりたければ、この世で四苦八苦を我慢しなければならない。我慢できずに自殺したら、もっと厳しい四苦八苦が、あの世で待ち受けている。だからこの世の四苦八苦は我慢するべきで、決して自殺してはならない』と言ってこぎ使ってきた支配者たちの非支配者たちに対する自己防衛であったように思えてなりません。
わたしたちは、やはり生きている今、しあわせでありたいのではないでしょうか。
『この世を我慢して苦渋の中で生きなさい。そうすればあの世で楽が用意されている。だから決して自殺をしてはいけない』
これでは、まさに奴隷です。
宗教とは、奴隷を信者という名前に変えただけのことです。
所詮は搾取・略奪行為に過ぎません。
唯心的という考え方の背景には、こういった泥々とした人間の想いが、まさに「・・・・の後ろ」に潜んでいるのです。
宇宙の果ての向こうには一体何があるのか?
神を創造したのは一体誰なのか?
これすべて、「・・・の後ろ」の話です。
唯物論者が、宗教を偽善と言う所以です。
わたしたちは生きている限り、一所(一生ではなく、『今、ここ』の一所)懸命生きることが大事なのです。
その中で、Material(物質的な)なことと、Immaterial(非物質的)なことがあることを知らなければなりません。
目に見えるものがMaterialで、目に見えないものがImmaterialであって、目に見えないものがMentalであるのではないのです。