Chapter 197 記憶は寿命のシグナルランプ

わたしたちは、日々の糧を得るために働いていますが、それを仕事と言うわけです。
毎日の3分1を仕事に費やしているのですから、人生の3分の1は糧を得るための仕事に割いていることになります。
そして大体20才から60才まで仕事をするわけですから、人生80年と考えますと、人生の6分の1の実質は、糧を得るための仕事をしていることになります。
しかし、わたしたちは1日を24時間と捉えて生きていません。
仕事をしている日々の3分の1つまり8時間を1日と捉えているか、少なくとも睡眠を採っている1日の3分の1は除外しています。
睡眠を採っている一生の3分の1も、立派な人生であると認識して生きてきた人は、極めて希だと言えるでしょう。
人生80年と言っても、実際にはその3分の2のおよそ50年そこそこしか生きていないわけで、残り30年の眠っている時間は無駄になっているのです。
考えてみればその通りで、わたしたちの一生を思い出すと、目が醒めていた時の記憶ばかりで、眠っていた時の記憶は殆どありません。
しかし、夢の記憶はかすかにある筈です。
強烈な悪夢や楽夢は、記憶に残っているもので、その余韻が、目が醒めている時にも大きく影響を与えているのです。
眠っている間も人生の一部であることを、その余韻に対する記憶が示しているのです。
また、目が醒めている間の記憶も、徐々に薄れていきます。
そうしますと、わたしたちの一生とは一体何なのか、少しづつ見えてくる。
限られた時間−有限な時間−という中での記憶が、わたしたちそれぞれの一生であるわけです。
死ぬことを知ることによって一生の概念が生まれ、一生の概念が時間の概念を生んだと、前に申しましたが、更に洞察していきますと、限られた時間の中での記憶が一生の正体であることがわかってきます。
しかも、その記憶もどんどん時間と共に薄れていく、つまり消えてゆくのです。
乾電池は、その蓄積された電気を使うことで徐々に蓄積量が減少してゆき、最後に使い果たし、その蓄積量がゼロになることによって、その一生を終わります。
アルカリ電池は、普通の電池よりも寿命が長いように、電池によってその寿命が違います。
わたしたちの一生は80年の寿命を持った電池のようなものなのです。
電池の場合の電気が、わたしたちの場合、生命(寿命)エネルギーと言っていいのですが、それが記憶量を示すゲージで寿命のシグナルとなって表れていると考えられます。
携帯電話の蓄電量がゲージで示されていて、空っぽになるとシグナルが点灯される。
記憶とは、まさにわたしたちの寿命のシグナルゲージなのです。
インドのヨガでは、生命エネルギーのことをプラーナと言って、いわゆる寿命のことで、肉体を維持するために採取する食料で寿命を維持するのではなく、飽くまでプラーナという生命エネルギーが枯渇することで寿命が尽きると考えられている。
そしてプラーナは地球の親である太陽から注がれているエネルギーの一つであり、熱エネルギーとは別のものだというわけです。
熱エネルギーは、その量を計ることができるのですから−今年の残暑は厳しいというのも熱エネルギーの量を表現している−目に見えるものと言っていいでしょう。
しかし生命エネルギーであるプラーナは、目には見えないただの概念である言わざるを得ません。
地球上の生命体は太陽なくして生きてゆけないのは確かでしょう。
そういう意味では、太陽から生命エネルギーを与えられているのは確かでしょうが、果たしてそれでプラーナという目には見えないものが存在しているのかどうかは断定できません。
死ぬということは、プラーナが枯渇することを言うのですから、やはり存在するものである筈ですが、残念ながら目には見えないのです。
もちろんわたしたち人間の目では見えないだけであって、マクロ的若しくはミクロ的レベルでは目に見える、つまり存在している筈です。
それをエーテル体、アストラル体、コーザル体などと区分けして、それらが霊の一種であるとし、その究極に神があるとして体系づけているのが、神智学やインドの宗教の原点であるインド哲学です。
結局の処、目には見えないものが存在することを説明する方便であるわけで、唯心論の原点がここにあると言っていいでしょう。
一方、唯物論とは、目に見えるものしか存在しないという考え方ですから、いくら詳細に体系づけて説明しても、所詮見えないものは存在しないのであってそれまでだと結論づけられてしまいます。
唯心論と唯物論が対峙する原因がここにあるのですが、犬を好きな人種と嫌いな人種とは、永遠に交わることができない、いわゆる生理的な関係にあるのと同じようなものです。
しかし本来、唯心論と唯物論は視点の違いだけであって、本質は同じである。という観点に立たないと、わたしたちの分裂症は絶対に解消されないのです。
唯心論と唯物論の交差する点が、記憶というゲージではないかと考えられます。
わたしの父は98才で大往生を遂げました。
その父の生前を振り返ってみますと、どんどん記憶が薄れていく姿が印象に残っています。
そして普段のように床に就いてそのまま永遠の眠りに就いたのですが、まさに記憶のゲージがゼロに近づき、そのシグナルランプが薄暗くなっていくような中で消えていったのです。
そんな父を見ていますと、再びシグナルランプが点灯し、ゲージが100%に戻ることが果たしていいものかどうか疑問に思うわけです。
わたしには輪廻転生は無用にして頂きたいと思う気持ちがますます強くなるのです。