Chapter 193 地獄が先にありき

輪廻転生とは、生死を何度も繰り返すことを言い、この世で善い行いをすれば、次に生まれ変わったら、今回の生よりも、更に良き一生を送ることができる。
他方、逆もあり得るわけで、天国と地獄の概念も、餓鬼、畜生、修羅の定義もそこから誕生したものです。
つまり、この世での業によっては、人間が畜生にも生まれ落ちる可能性もあり、畜生も人間に生まれ変わることが、何回かの転生によって可能であると言うわけです。
しかしながら、前述しましたように、一生という概念が、わたしたち人間だけのものであり、他の生き物にはないのであれば、どうして動物は善い業を行うことができ、人間への転生を図ることができましょうか?
一生の概念、つまり死ということの認識が無い他の生き物は、瞬間を生きているだけで、一生を通じた生き方など考えたこともないのです。
そんな彼らにも輪廻転生があるなら、彼らは永遠に畜生界から這い上がることが不可能です。
輪廻転生は人間だけにあると言うなら、それは人間界だけのルールつまり憲法や法律のようなものであって、宇宙や地球の法則にはない程度のものだと言わざるを得ません。
宇宙、地球を貫く真理でないものなど、何の意味もない。
輪廻転生など無いと、結論づける根拠がここにあるわけです。
輪廻転生とは、人間世界だけの、つまりビジネスの方便としての概念であることは、カースト制度で凝り固まったインドで誕生したことからも言えるでしょう。
結局の処、宗教というものはビジネスの一種であると言わざるを得ない。
死を知ることによって、一生の概念が生まれた。
そして一生の概念から時間が誕生した。
「神はすぐ傍」で書きました。
わたしたちの宇宙が、運動する宇宙になった結果、時間が誕生した。
静止する宇宙では、時間など在り得ません。
だから、時間は人間にとっての最適の神かも知れない。
「神はすぐ傍」で、時間が神かも知れないと書いた根拠がここにあるのです。
結局、時間というものは概念であるだけで、実在するものではない。
だから目に見えないのです。
目に見えないものしか信じない、つまり実在するものは見えるもの、これが唯物的発想の原点です。
目に見えないものも信じる、つまり見えないものも実在する、これが唯心的発想の原点です。
そうであるなら、わたしたちが生きているこの世界は、唯物的だと言わざるを得ません。
死んだら、何もかもお終いで、ただ消滅するだけ。
死んだことがない、わたしたちには、そう断定できないことも確かでしょう。
死んだあとのことを考えること自体が、一生の概念がある故であるし、輪廻転生を知らず知らずの中に信じているからに外なりません。
人間の中に潜んでいる罪と罰の意識がある限り、輪廻転生は罪の浄化作用の特効薬として、ひとりひとりの人間が持ち続けているものなのです。
だから、輪廻転生の思想が受け入れられるわけです。
宗教がビジネスの一種の形態だと申しました理由もここにある。
ひとりひとりの人間の中に潜んでいる罪と罰の意識を浄化してやる薬品会社が宗教団体でです。
病気がなくなれば、薬品会社や医者の商売は上がったりです。
罪と罰の意識が人間からなくなれば、神や宗教の商売は上がったりです。
コンピュータ・ウィルスがなくなれば、ウィルスソフトの会社の商売は上がったりです。
商売とは、人の弱みに付け込むのが、その極意であることを忘れてはいけません。
他の生き物には、罪の概念などありません。
従って、罰の意識もありません。
だから、犬も猫も猿も、人間が創った神に対して小便をかけても平気なのです。
わたしは毎朝散歩をして、途中で神社に立ち寄り、参拝する習慣を持っていますが、その神社の宮司が犬を飼っている。
その犬が朝の散歩で、境内のあっちこっちで、それは小便、大便のやりたい放題。
それでも、誰もその犬を咎めたりはしないし、犬も平気です。
この犬に罰は当たるのでしょうか?
罪の意識が罰の意識を生む結果、輪廻転生という方便を編み出したまでは好かったのでしょうが、そこから一生の概念が発生した。
そして一生の概念が、人間だけに地獄の概念を持たせる結果になってしまった。
天国と地獄の概念は、地獄の概念が先にありきだと言えるでしょう。
光よりも暗闇が先にありき。
音よりも沈黙が先にありき。
運動よりも静止が先にありき。
飛躍し過ぎでしょうか?