Chapter 191 一本の矢

祇園精舎の鐘の声
諸行無常の響きあり
沙羅双樹の花の色
盛者必衰の理をあらはす
おごれるものも久しからず
唯春の夜の夢のごとし
たけき者もつひにはほろびぬ
偏に風の前の塵と同じ

平家物語の走りですから、今から800年以上前に、作者不祥のこの歌を琵琶法師が語っていたわけです。
仏教の因果律、無常観の真理を既に、この時代の人々は理解していたことになります。
それなのに、現代の世に生きるわたしたちは、この800年前の真理をも忘れ去ったのか、はたまた欺瞞に満ちた生き方に我を耽けさせる日々を送っているのでしょうか。
運動の光と音(喧騒)の世界こそが、無常観の世界です。
しかし、諸行無常つまり運動する世界が絶対宇宙ではないのです。
静止の暗闇と沈黙の世界が絶対宇宙です。
しかも、その絶対宇宙は、わたしたちの、「すぐ傍」に厳然と在るのです。
わたしたちの一生は、眠っているのが3分の1、目が醒めているのが3分の2の配分になっています。
従って、眠っている間も大事な一生であるわけで、目が醒めている時は、運動の光と音(喧騒)の世界、つまり無常の世界で生きているが、眠っている時は、静止の暗闇と沈黙の世界、つまり「常」の世界、「不変」の世界で生きている。
無常の世界に生きているのに、「無」や「空」の生き方を唱導する教えなど、馬鹿げた話ではないでしょうか。
「常」、「不変」の世界に生きているからこそ、「無」や「空」の教えが必要なわけで、無常の世界であれば、「無常」、「変化」に対応する教えが要るのではないでしょうか。
わたしたちの日常生活を考えてみますと、これはまさに、「無常」、「変化」の世界に対応した生き方をしているのです。
過去や未来に想いを馳せていること自体が、無常世界を容認していることになる。
わたしたちは自分の一生の3分の2、つまり目が醒めている状態に合わせて生きているのです。
自分の一生の残りの3分1、つまり眠っている状態を無視して生きているのです。
ここに大きな問題がある。
目が醒めている状態にも、眠っている状態にも対応できる生き方をしない限り、自己分裂症状が起きることは必定です。
無常の世界でもあり、常の世界でもある、わたしたちの世界。
変化の世界でもあり、不変の世界でもある、わたしたちの世界。
運動の光と音(喧騒)の世界でもあり、静止の暗闇と沈黙の世界でもある、わたしたちの世界。
四次元時空間世界でもあり、五次元絶対宇宙でもある、わたしたちの世界。
3階、4階建ての劇場でもあり、更にその上に5階もある、わたしたちの世界。
その劇場の舞台には、背景画面と舞台がある、わたしたちの世界。
「私」の世界でもあり、「わたし」の世界でもある、わたしたちの世界。
これら対峙する世界を貫くのが、夢であることを理解しなければなりません。
正夢、負夢の世界でもあり、白昼夢の世界でもある、わたしたちの世界。
夢は、無常の世界と、常の世界を貫く、一本の矢です。
この一本の矢が、スピンして一元世界から二元世界を通って三元世界に戻る。
その瞬間(とき)、一本の矢が祇園精舎の除夜の鐘を百八つ鳴らすのです。