Chapter 190 五感の無い世界

瞑想とは、その字が示す通り、目を閉じて−瞑とは、目を閉じること−想うことです。
普段のわたしたちは、目を開けて想います。
それを考えると言います。
つまり目を開けることが、考えることに外なりません。
だのに、目を閉じて想うとは、一体どういうことでしょうか。
先ず、想いや考えには方向性があるということ。
更に、考えは片側通行だが、想いは両側通行です。
だから目を閉じても想うことはできるのです。
目を閉じて考えることはできません。
何故なら目を開けることが考えることに外ならないからです。
そうしますと、五感というものが、それぞれ独立した機能ではないということがわかってきます。
五感とは、見る、聞く、匂う、味わう、肌で感じる五つの感触です。
五感の外に六感というものがあって、それを「識」と仏教では言い、想うということに外ならないわけですが、仏教では五感の上に六感つまり六番目の感触として、「識」つまり想いを位置づけています。
五感までは、目の見える世界のことであるのに対して、六感は目の見えない世界のことを示しているのです。
そして、目の見える世界だけを信じるのが唯物的であり、目の見えない世界もあると信じるのが唯心的だというわけです。
更に、結局は五感も六感もなくて、すべては「無」であり「空」であると透徹しているのを、般若心経では、「無眼耳鼻舌身意、無色聲香味触法、無眼界乃至無意識界、無無明亦無無明尽乃至無老死亦無老死尽・・・」と連綿と続けているのです。
まさに、「無」とは否定(ネガティブ)の精神であり、仏教とはネガティブな宗教だと言われる所以であります。
すべてが、「無」つまり無いというわけです。
一方、「空」とは逆に「すべて」と捉えている。
つまり有限なものに対して無限なものが「空」であり、「すべて」であるわけです。
有限宇宙が、わたしたちが生きている運動の光と音(喧騒)の世界です。
無限世界が、果てしない向こう側の静止の暗闇と沈黙の世界です。
そうしますと、まさに五感、六感の世界が、運動の光と音(喧騒)の世界であり、五感や六感などを越えて無くなった世界が、静止の暗闇と沈黙の世界であることがわかってくるのです。
唯物的だとか唯心的だとか言って区分けしているのは、所詮五感、六感のある運動の光と音(喧騒)の世界の話です。
唯物思想とは、目に見える世界つまりこの世だけを信じ、目に見えない世界つまりあの世を信じない考え方であり、唯心思想とは、目に見えない世界をも信じる考え方と区分けするのが如何に馬鹿げているかが、わたしたちにはわかっていないのです。
五感、六感の働く世界が、運動の光と音(喧騒)の世界であり、五感、六感を超える、つまり無い世界が、静止の暗闇と沈黙の世界である。
しかも、運動の光と音(喧騒)の世界と静止の暗闇と沈黙の世界が表裏一体であり、わたしたちはこの表裏一体の世界に生きていることを理解しなければなりません。
普段のわたしたちが生きている四次元時空間世界−三次元空間世界を包含する−が運動の光と音(喧騒)の137億年の拡がりを持つ有限全体宇宙であるのに対し、五次元世界が静止の暗闇と沈黙の無限絶対宇宙である。
そして、わたしたちは両方の世界に生きているのです。
3階、4階、5階のある自分独りだけの劇場とは、まさに無限絶対宇宙をも包含する世界を表現しているのです。
わたしたちは日夜、有限全体宇宙と無限絶対宇宙を往来して生きており、夢の中とは無限絶対宇宙に生きていることに外ならないのです。
五感の在る世界が理屈の世界であり、五感の無い世界が実在の世界であると言ってもいいでしょう。