Chapter 19 舞台の演出者

わたしたちが現実だと思っている世界は、実は映画の世界と舞台の世界が重なり合っているものなのです。
しかし、わたしたちの多くは映画の世界しか観ていません。
映画の世界を観ているわたしたちは、夢を観ている世界であって、従って、わたしたちが現実だと思っている世界は実は夢であるわけです。
それでは舞台の世界は何処に存在するのでしょうか。
Chapter13、14では四階で観ることの出来る四次元世界が舞台の世界であると申しました。
しかし、わたしたちは三階と五階を往来しているだけで、肝心の四階を素通りしてしまっているとも申しました。
これは、象徴的にお話したのであって、実際には四次元舞台は何処にあるのでしょうか。
映画のフィルムは一枚一枚の静止画が重なり合ったものです。
そこに時間の流れを入れたら、映画になるのです。
従って、時間の流れ全体を鳥瞰したものが四次元世界であることから、映画全体が四次元世界ということになります。
原作もひとつの四次元世界を表現しているし、脚本も、映画もまたしかりであると申しました。
では始まりから終わりまで鳥瞰できるとはどんな世界なのでしょうか。
映画であれば、監督なら鳥瞰できる。
脚本なら脚本家。
原作なら原作者。
たとえば、「ルノーの妹」といういろいろな四次元世界を表現しているものがあるとしましょう。
原作では、著者であるわたしが、始めから終わりまで熟知しており、どこの場面でも即座に引っ張り出すことができます。
ルノーと妹のナタリーが二人でローテンブルクに行った帰りにパリの小さなホテルでベッドを共にします。兄妹だから、もちろんベッドシーンはないのですが、お互いに兄妹以上の好意を持っている二人は、背中を合わせて一睡も出来ない一夜を過ごします。
そうしますと、ルノー20才、ナタリー17才の時でこの原作を刻みますと、このホテルの一室の世界が現れるのです。
またルノーがイランの首都テヘランで一人の青年に刺されます。その場面をロスアンジェルスで見ている妹のナタリーがいる、同じ場面をパリ郊外で見ている二人の両親がいる。
ルノーが27才、ナタリー24才の時刻で切った断面世界であるわけです。
原作者であるわたしには、この「ルノーの妹」という作品の四次元世界を鳥瞰することが出来るのです。
「ルノーの妹」を映画にする総指揮者は監督で、監督は2時間の映画のイメージが既にあるわけです。
そうすると、原作者のわたしには、映画としての四時元世界はわからないが、監督はわかっているのです。
すなわち演出者になると四次元世界を創造することが出来るのです。
原作における演出者はわたしです。
脚本における演出者はわたしではなく脚本家です。
映画における演出者は映画監督です。
舞台における演出者は舞台監督です。
それぞれの四次元世界は演出者によって創造されたものであるのです。
この観点をどうか忘れないでください。
演出者の意思によって四次元世界が創造され、その断面を一人の観衆が観ている。
実は観衆は演出者でもあるのです。
しかしそのことを観衆は知らないでいるのです。
飽くまで観衆でいるだけなら、決して四次元世界である実像の舞台を観ることは出来ず、虚像の映画しか観ることは出来ない。
それが夢を観ている状態なのです。
観衆である自分が演出者にもなれば、その時実像の舞台を自分で創造して観ることが出来るのです。
それが夢から醒めた状態なのです。
キーワードは自分の人生の演出者になることが実像の世界を生きることであります。