Chapter 187 心の自由

わたしたちは考えて生きています。
いつごろから考えて生きるようになったのか、憶えているでしょうか。
それが記憶のはじまりですが、その時期というのは、この世に生まれ落ちてから数年が経過した後です。
前Chapterでお話しましたが、わたしたち人間は生まれてから数年は本能中心で生きていて、知性はほとんど機能していない状態で生きています。
そしてその後、「人間は考える葦である」とパスカルが言ったように、考える癖を持つに至って、それ以前の本能で生きているときのことを忘れてしまうのです。
本能で生きる、つまり感じて生きることから、知性で生きる、つまり考えて生きるスタイルに変わるのが、記憶のはじまる7才ぐらいです。
「自分は3才ごろのことをよく憶えている」と7才以前のことを記憶している方もいらっしゃるようですが、こういう方は知性機能が強いわけです。
わたしの記憶のはじまりは、幼稚園の入園式で、「結んで、開いて・・・」をみんなで唄わされた時のことです。
『何故こんなことをしなければならないのか・・・』と、生まれてはじめて自由を奪われた想いをした。
逆に言えば、それまでまったく自由気ままに生きてきた証であり、今から考えれば両親に感謝しなければなりません。
普通の親なら、「幼稚園に入れば、みんながやっていることを一緒にしなければいけません!」と叱られていたでしょうし、3才の頃の記憶がある方などは、3才の時に既に社会人生活を無理やりさせられた結果なのに、わたしの場合は幼稚園に入るまで、まさに本能のままの自由な生き方ができて、知性と本能の狭間で分裂することがなかったから記憶がないわけです。
「人間は考える葦である」ことは確かですが、記憶つまり悩みの原因は、考えることにあることも確かなわけです。
体の自由を奪われるのが奴隷ですが、心の自由を奪われるのが地獄です。
体の自由は他人から奪われます。
心の自由を奪うのは、他ならぬ自分であって、その張本人が、「考える葦」であり、まさに自縄自縛の人生です。
自縄自縛の人生は、生まれ持っての本質が固まる7才ごろからで充分なのに、何故早く自分を縛りたがるのでしょうか。
それが親の責任であることは確かです。
現代社会の子供たちが、大人になってから自分の記憶を辿ってみると、ほとんどが3才ごろのことを憶えている筈です。
3年保育は3才ごろから始まるわけですから、既に社会生活に入っていて、知性の記憶に既に切り替わっている、つまり自由な人生から、心の奴隷である地獄の人生がはじまっているのです。
自由に生きるのが、幸せの原点であり、人間のみならずすべての生き物にとって最も大事なことです。
自由を奪われる出来事は、その後の人生に大きな陰を投げかけ、社会生活を余儀なくさせられる、わたしたち人間にとっても、それは出来る限り、遅い出来事であるべきです。
わたしの人生は、もちろん紆余曲折はありましたが、一般の人に比べて自由なものであったと思えるのは、やはり子供の頃の自由な生き方にあったと思うわけで、やはり両親のお陰です。
この真の自由思想は、わたしの一生を貫く結果となり、その後の人生に大きな好い陰を投げかけてくれています。
これからの人生がどのようなものになるか、わかるべくもないが、両親から与えられた真の自由思想が、いつも見守ってくれるだろうと確信を持っています。
それにつけても、毎朝幼稚園の送迎バスに乗る子供たちを見るたびに、彼らを送る親たちの顔がブタのように見えるのは、わたしだけでしょうか。