Chapter 186 体験とは継続の結果

体験することと知るということの違いについて、考えてみましょう。
肉体をコンピーユータに喩えますと、知るということは大脳という周辺記憶装置−コンピュータ内部のハードディスクにあたる−に蓄積されることですが、体験するということは実際に体を動かす各器官にあたる内部記憶装置−CPU(コンピュータの中枢であり本体でもある)中にあるキャッシュメモリーにスタンバイしていることを言うのです。
コンピュータというのは、単なる電気回路の組み合わせたものですから、それだけでは単純作業しかできません。
それを人間と同じような複雑な作業をさせるためには、複雑な作業を単純な作業に分解して、作業の必要頻度に応じて、頻度の多い作業は内部記憶装置に、頻度の少ない作業は周辺記憶装置にしまっておくわけです。
そしてこれらの作業の分解手順を小脳に記憶させて随時必要に応じて作業命令を出すのです。
従って、知るということは大脳という周辺記憶装置にしまうことであるのに対して、体験するということは、小脳に作業分解手順をしまい、各器官という内部記憶装置に単純作業のプログラムをしまうことを言うのです。
学習には2段階のステップがあり、先ず知るというStudyの段階があって、更に練習する、つまり体験するExerciseという段階があってはじめて学習することになるのですが、わたしたちが学校で勉強することは、Studyという知る段階だけで止まっているのです。
英会話は勉強ではなくて体験そのものであって、頭の良し悪しには関係なく、敢えて言うならば運動神経の良し悪しに関係するわけで、運動と考えた方がいいから、Exerciseと言うのです。
わたしたちが生きるということは、体験するそのものであって、知ることではありません。
学校や会社で、試験の成績の好い人間が優秀だと判断する日本社会は、まさに頭でっかちの末端卑小症−肥大症ではありません−の化けもの集団です。
もちろんExerciseするにはStudyをしてからでないとできません。
しかしStudyだけで満足していても何の意味もないことも確かです。
実戦派と理論派が競い合うと、理論派が圧倒的に勝つ日本社会は、やはり機会の平等社会ではなく結果の平等社会であるわけで、まさに崩壊した共産主義社会の残党です。
共産主義思想が自由主義思想に敗北したのは、頭でっかちの末端卑小児と低能だが末端肥大児の運動会の結果のようなものです。
従って、StudyとExerciseの違いは、その継続性にあるのです。
複雑作業を単純作業に分解して体の各器官を動かすことがExerciseです。
体験するということは、日頃のExerciseつまり練習の積み重ねであって、それを実現するには継続するしか方法はないのです。