Chapter 182 無限宇宙は「すぐ傍」

「神はすぐ傍」で、「時間」が実はわたしたちにとっての神であるという前提でお話しました。
従って、「神はすぐ傍」とは「時間がすぐ傍」と同じであって、確かにわたしたちは常に時間と共に生きていると言ってもいいでしょう。
仏教の教えの中で、無常観というものがあります。
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」
平家物語でも、世の無常を訴えている。
この無常観とは、すべてのものは移ろいでいて止まることは無いということです。
つまり物理学的に言いますと、運動していることに外ならないわけです。
随所に物理学、数学、天文学用語を使用しているのは、わたしたちが生きていく上で、これらの学問は非常に大事な真理を教えているからです。
しかし、これらの学問の先生方は、人生訓ではなく、専門的知識の分野と思い込んでいる節があり、自分たちは特別−つまり難しい学問−だと悦に入っているように見受けられるが故に、一般のわたしたちは拒否反応を示してしまうのです。
教育の在り方にも問題があるのだと思います。
これらの学問は国語で言葉を学ぶのと同じぐらい、日常生活に密接に関係ある観点で教えるべきだと思います。
脱線してしまいましたが、無常とは運動することに外ならないわけで、運動するためには、時間の概念無しでは不可能であることをわたしたちはもっと理解すべきだと思うのです。
物理学や天文学を学ばなくても、わたしたちは四次元時空間世界という言葉を知っています。
わたしたちが生きている世界が時空間、つまり時間と空間の世界であるというわけです。
そうすると、時間と空間の世界が、わたしたちの宇宙であり、それが運動する世界であり、無常の世界であるということぐらいはわかる筈です。
一方、わたしたちは、「神が天地創造主であるなら、神を創造したのは一体誰なのか?」という鼬ごっこの質問をよくします。
「宇宙に果てがあるとするなら、その向こうには何があるのか?」と同じ質問であるわけです。
わたしたちの果てのある宇宙が、運動する世界、無常の世界であるとするなら、その向こう側にある、果てしない宇宙は、運動していない世界、つまり静止している世界であると言わざるを得ないのです。
光は、わたしたちの宇宙が150億年前に誕生した直後に、正と負のX粒子という極小の物質があって、それらが衝突して生まれたのです。
光が波動であり、粒子(光子体)でもあると言われる所以です。
また音は、音自体が波動であるのですから、静止の世界では存在し得ません。
そうしますと、果てしない宇宙は、運動しない、光の無い、音の無い、静止の暗闇と沈黙の世界になるわけです。
わたしたちの運動の光と音の宇宙の対極にあるということになります。
無と有。
果てし無い宇宙と、果ての有る宇宙。
二元論的に考えれば−果てしない宇宙は一元論の世界ですが−果てし無い宇宙と、わたしたちの果ての有る宇宙とは表裏一体ということになり、決して無縁の世界ではないわけです。
まさに、「すぐ傍」の問題であるのです。
五感とは、果ての有る世界でのこと。
果てし無い世界は、五感の無い世界。
わたしたちが、見る、聞く、匂う、味わう、肌で感じることができるのは、運動の光と音の世界である故のこと。
見る、聞く、匂う、味わう、肌で感じることができないのが、静止の暗闇と沈黙の世界である。
般若心経にある、「五蘊皆空、度一切苦厄」とは、静止の暗闇と沈黙の世界では、五感(五蘊)はすべて無く、従って一切の四苦八苦は無いと言っているのです。
そして、その世界は、「色即是空、空即是色」
つまり、わたしたちの世界(色の世界)と、空の世界、静止の暗闇と沈黙の世界とは表裏一体であると言っているのです。
果てしない、無限の宇宙は、実はわたしたちのすぐ傍に存在しているのです。
そして、その一瞥を与えてくれているのが、夢の中であるのです。