Chapter 179 捨てる神・拾う神

生まれつき目の不自由な人は、映像の原点が記憶に無い故、映像のイメージを持つことができません。
いくらまわりの人から言葉で映像の説明を受けても体験しないものは、イメージすることができないのです。
逆に言葉で映像の説明を受けると、映像のイメージではなく言葉のイメージを記憶することになります。
人に教える時、言葉で教えても何の意味もありません。
体験させることでしか、教える人の持っているものを伝授できないのです。
従って、生まれつき目の不自由な人は映像の体験が無いのですから、映像の夢を観ることは不可能です。
わたしたちは輪廻転生という概念を持って生きています。
魂や霊魂、あの世というものの存在を信じている人が結構います。
あらゆる宗教は前世の存在を縁(よすが)にしています。
それなら、今世に生まれ落ちた時に目の不自由な人も前世でも目が不自由であったら別ですが、前世で目が不自由でなかったら、映像の記憶が残っている筈です。
そして前世の記憶が潜在意識に残っていて夢に現れるのだから、今世で目が不自由でも、前世の映像の記憶が夢に現れる筈です。
逆に言えば、生まれつき目が不自由な人が映像のある夢を観るなら、前世の存在が証明されることになり、人間のみならずすべての生き物は輪廻転生することになります。
生まれつき目の不自由な人に、夢の内容を訊いたことはありませんが、映像の夢を観るなど不可能だと思います。
想像をすることはできても、想像の原点が他人からの言葉でしか伝えられないのですから、やはり言葉のイメージであって映像のイメージにはなり得ないと思うのです。
ヘレン・ケラー女史は見えない、聞こえない、喋れない、の三重苦を経験されました。
しかし同女史は生まれつき目と耳が不自由ではなく、1才9ヶ月の時に病気の高熱によって目と耳を奪われたのです。
1才9ヶ月の時の記憶が、水のイメージと言葉"ウォーウォー"であったのです。
水の映像としてのイメージと言葉"ウォーウォー"の一致した記憶が、その後の彼女をつくっていくのです。
生まれつき目と耳が不自由であっても、彼女の輝かしい人生は可能だったでしょうか。
目と耳を奪われるということは、暗闇と沈黙の世界に放り投げられるということです。
わたしたちの生きている宇宙は、運動と光と音の世界です。
その世界に生まれ落ちて光と音を奪われることは想像を絶する苦痛です。
しかし、1才9ヶ月という時間が彼女に希望という光と言葉を与えたのです。
しかも彼女に反対給付として与えられた最大の祝福は、無限である果てしない宇宙の一瞥を生まれながらにして知ることができたことではないでしょうか。
わたしたちは五体満足な肉体を持ちながらも、いまだに四苦八苦の人生を送っているのですが、それは運動と光と音の世界しか知らない故で、静止と暗闇と沈黙の無限世界を知ることができたら、四苦八苦など雲散霧消してしまうのです。
同女史は捨てる神と拾う神に出会ったのでしょうが、わたしたちは捨てる神にも拾う神にも出会うことが無いのでしょうか。
いや捨てる神ばかりと出会っているのかも知れません。