Chapter 176 生きるとは見ること

見るという行為を通じて、わたしたちは生きていると言っても過言ではありません。
つまり生きるということは見るという行為に外ならないことを、わたしたちはどれだけ意識しているでしょうか。
夜眠っている間、わたしたちはまさに−夢を−見(観)ていると言っていいでしょう。
昼間所謂現実の世界においても、網膜に映っている映像を見てわたしたちは生きているのです。
朝目が醒めた瞬間(とき)、わたしたちが最初にすることは、見るという行為の切り替え作業をすることです。
目が醒める直前まで、夢を観ているわたしたちは潜在意識下で心の目を開いて見ています。
ところが、30分の映画と同じで、時間が来ると、"つづく"とも言わないで突然スクリーンに映っている映像はプチッと切れてしまい、真っ暗になっていた館内に電灯が点くことによって、わたしたちは肉体の目を醒ますのです。
しかし夢というドラマは実は引き続き映写されています。
館内の電灯を点けられることによって、スクリーンの画面が薄くなってしまっているだけで、今まで真っ暗で見えなかった館内の方がはっきり見えるようになった結果、見る対象が夢のスクリーンから館内に変わっただけです。
目が醒めるということは、館内に電灯が点くことに外ならないわけです。
寝ても醒めても、わたしたちは自分独りだけの映画館の座席に座っていることが見るという行為なのです。
そして座席に座っているのが本当の「わたし」であって、座席から離れて映画という幻想の世界を旅しているのが、外ならぬ、日頃自分と思っている「私」なのです。
わたしたちの一生はまさに見るという行為に外なりません。
わたしたちの肉体は五感を通じて生きていますが、その中で殆どが見るという行為です。
聞く、匂う、味わう、肌で感じるという行為は、所詮映画の周辺装置であって、スクリーンに映し出される映像が主体です。
お釈迦さんの中道の精神を体得する方法論として八正道というのがあります。
正見(正しく見る)、正思惟(正しく思う)、正語(ただしく語る)、正業(正しく仕事をする)、正命(ただしく生きる)、正精進(ただしく精進する)、正念(ただしく念ずる)、正定(ただしく禅定する)の八つですが、正見(正しく見る)を第一番目に挙げられているのは、見るという行為が生きている中で最も重要であると思われたからではないでしょうか。
従って、昼間目が醒めている時、わたしたちは肉体を動かすことを以って生きていると思っているが故に白昼夢を観ていることに気づかないのです。
生命エネルギーを見るという行為よりも、肉体を動かす方に傾斜配分している結果、目を瞑っても網膜に映っている夢という映画が薄くなってしまって見えないような感覚になっているのです。
セックスをしている際、わたしたちは意識を性器に集中している結果、生命エネルギーは見る行為にも分配されるだけの余裕ができます。
そして希薄になっている夢の映像の方に目が向けられる結果、所謂現実の世界から夢の世界へ意識が切り替えられるのです。
セックスをしている時、目を閉じているのは、夢を観ているからに外ならないのです。
女性は感度が男性よりも鋭く、セックスとは夢の中での出来事であることをよく理解しているから必ず目を閉じているのです。
男性はセックスの行為中であっても、それが夢ではなく、所謂現実の世界での出来事だと思っているから、目を開けてまわりの様子を窺っているのです。
つまり映画館の電灯を点けたままで映画を観ているようなもので、意識が散漫になっている。
一方、女性は映画を観ているのだから、電灯を消して、更に目を閉じて暗闇の世界に没入したいのです。
こんな人間の男女がセックスをするのですから、所詮理解し合える筈がありません。
結婚という慣習は、そういう点において、人間社会に不幸をもたらす大きな要因になっていることは確かでしょう。
観点の違いが人間同士の相克を生み、殺し合いにまで発展していく。
正しく見るということが、何にも増して大事だと言われる所以です。