Chapter 175 4階はお釈迦さんの世界

お釈迦さんは中道の心を説きました。
それは、わたしたちが生きている世界が二元論に基づいており、二元論の世界であるが故に迷い、悩む結果、四苦八苦を味わうわけで、そこから脱け出るには、二元世界を超えて三元世界に入るしか無いことを教えているのです。
善悪、強弱、賢愚・・・生死・・・眠りと覚醒。
善が善くて悪が悪いから善悪だと、わたしたちは思い込んでいます。
しかし、善を意識すると必ず悪を意識せざるを得ないのが二元論の世界であることを理解していないわたしたちでもあります。
悪を否定したいなら善も否定しなければいけない。
善を肯定したいなら悪も肯定しなければいけない。
これが二元論の基本です。
神を肯定するなら悪魔も肯定しなければならないのが、わたしたちの世界の絶対法則であるのに、わたしたちは神だけを肯定しています。
お釈迦さんは決して神を肯定していませんが、悪魔も肯定していません。
つまり、否定の教えと言ったらいいでしょうか、「無」と言った表現は、否定的であるのに対して、「全て」と言った表現は肯定的だと言えるわけで、それは表現方法の違いだけで、同じ意味です。
わたしたちは、ここのところを理解できないのです。
無(無限)とは全てのことを意味する。
有(有限)とは部分のことを意味する。
わたしたちの世界は有限の世界であり、有限とは果てが有るから有限であって、無限と有限の境界、つまり果ての有るところと、果てしの無いところの境目が二ヶ所あって、それが善悪、強弱、賢愚・・・生死・・・眠りと覚醒と言った二元要因であるわけです。
わたしたちの世界は「善」という駅と「悪」という駅の間を往来する鉄道のようなもので、その間にある駅はすべて名無しの駅であるが故に、「善」と「悪」の標識しか見えない。
「わたしは善の駅が好い、あなたは悪の駅が好い・・・」と言った具合に、どちらかを選ぶしかないと思い込んで生きているのです。
振り子は、必ず一方の端に行くと、他方の端に方向を転換します。
わたしたちも振り子と同じで、この二ヶ所の駅を往復するのです。
善の駅に着いたら、悪の駅に向かうのです。
お釈迦さんの説く中道の心とは、名無しの駅に止まりなさいと言っているのです。
振り子が止まるのは、真ん中です。
少しでも右に偏ったり、左に偏っている間は、振り子は止まりません。
真ん中に止まってはじめて振り子は静止します。
善に偏ったり、悪に偏っている間は、わたしたちの心は善悪両方に振れ続けるのです、つまり二元世界にいるのです。
真ん中に止まることによって、わたしたちの心は善悪に振れることを止めます。
つまり二元世界を超えて三元世界に入るのです。
中道の心−精神−とは、まさに三元世界のことを指しているのです。
それでは、眠りと覚醒という二元についての、中道の精神とは・・・。
わたしたちは眠りの駅に着くと、覚醒の駅に向かい、覚醒の駅に着くと眠りの駅に向かいます。
わたしたちが毎日繰り返していることです。
夜に寝ては朝に起き、朝に起きては夜に寝る。
何故、夜になったら寝なければならないのでしょうか。
何故、朝になったら起きなければならないのでしょうか。
この疑問が湧いてこないで生きているなら、二元世界に埋没している証拠です。
他の動物は、夜になったから寝るのではないし、朝になったから起きるのでもありません。
彼等は空腹になったから起きるのであって、眠くなったから寝るだけです。
彼らは、判断の無い一元世界に生きています。
わたしたちは判断ばかりする二元世界に生きています。
朝になったら・・・、夜になったら・・・。
眠っていることは醒めていることを包含し、醒めていることは眠っていることを包含するのが三元世界です。
わたしたちは昼間醒めていますが、夢(白昼夢)を観て眠ってもいるし、夜眠っていますが、夢(正夢)の中で醒めているのが実態です。
無意識下で観る夢(負夢)は一元世界であり、三元世界でもある、果てしない世界を一瞥させてくれる窓です。
二元世界に生きていながら三元世界とも繋がっているわたしたち。
三次元空間世界の肉体でありながら、四次元時空間にも生きているわたしたち。
常に4階を通り過ぎながら、3階と5階を往来して、背景画面の映画を観続けているわたしたち。
真ん中の4階に止まることが、お釈迦さんの説く中道の心−精神−です。