Chapter 172 眠りは死の一瞥

わたしたちは眠っている限り、覚醒は無いのかも知れません。
悟りとは、欲望からの解脱だと特に仏教界では言われていますが、他の多くの宗教でも欲欲望が特に悟りへの最大障害になっていると考えられているようです。肉欲が欲望の中でも最も厄介な代物である故、宗教者は妻帯しない場合が多いのです。
しかし、肉欲とは決して性行為に対する欲望だけではありません。
食欲も肉体が要求するのですから肉欲である。
睡眠も肉体が要求するのですからやはり肉欲と言っていいでしょう。
前にもお話しましたように、比叡山の千日回峰行における堂入りでの9日間の食べず・飲まず・眠らずの行は肉欲を絶つ修行なのです。
欲望を絶つことが果たしてわたしたちにとって好いことなのかどうか一概に申せませんが、こういった修行は、眠っている精神の覚醒が目的であるのでしょうから、やはり睡眠は覚醒にとって対峙するべきものなのでしょう。
わたしたちは食べずに生きていくことはできません。
生きていく上での基本要件である衣食住。
しかしそれ故に欲望の対象になり、毒にもなり得るのは、突詰めてみれば、生きる欲望と言っていいのではないでしょうか。
考えてみれば、わたしたち人間同士の争い・相克はすべて生きる欲望のぶつかり合いが原因です。
わたしたちは眠らずに生きていくことはできません。
食べ物や家(領土、国土)の奪い合いで戦争するわたしたちですが、睡眠の奪い合いで争うことはありません。
睡眠は時間と同じで無限に与えられているから奪い合う必要がないわけで、食べ物や家は有限である故、奪い合いをし、結果殺し合いまでするのです。
わたしたちは普段、肉体を意識して生きていませんが、病気になったり、死を目前にしますと、想い−魂、精神と言ってもいいでしょう−など吹飛んでしまって、自分とは肉体そのものであると思い、肉体に対する執着が強くなります。
わたしたちは普段、衣食住つまり欲望に執着して生きていますが、極限状態つまり死と直面しますと、そんなものは吹飛んでしまって、覚醒への執着が強くなります。
覚醒への執着とは、眠り特に永遠の眠りである死からの脱却であるわけです。
目が醒めるから、わたしたちは安心して眠っているのです。
一度眠ってしまったら、永遠の眠りになるかもしれないと思えば眠れなくなるでしょう。
生きることと死ぬことは、覚醒することと眠ることと言い換えてもいいでしょう。
普段のわたしたちは生きることは好いことだと思って、死ぬことは好くないことだと思っています。
「いや、生きることは四苦八苦だから、自分は死ぬことを好いことだと思っている」
と嘯く方も、「あなたは末期癌で余命いくばくもない」と言われると慌てふためくこと請け合いです。
そうであるなら、覚醒が好いことで眠りは好くない筈なのに、わたしたちは覚醒することなど頭の片隅にもなく、眠りを貪って生きているのですから、矛盾も甚だしい生き物です。
眠ることを好いことだと思うなら、死ぬことも好いことだと思うべきです。
死ぬことを好くないことだと思うなら、眠ることも好くないことですから、眠りを貪っていてはおかしい。
あなたは、死を好いことだと思っていますか、それとも好くないことだと思っていますか。
それを決めるのは、あなた自身です。