Chapter 171 意識と心

わたしたちは眠ってもいないのに四六時中眠っている。
目を醒ましているということは、目を開けていることに外ならないのですが、ここでよくよく注意しておかなければならないのは、目を開けていると言っても、それは肉体としての目を開けているかどうかではなくて、心の目を開けているかどうかにあるのです。
では心の目が開いているということはどういう状態なのでしょうか。
わたしたちは二つの目を持っていますが、瞼が開いているから目が開いているとは限りません。
瞼を閉じていても意識があれば、目は開いているのです。
意識がある状態を、目を醒ましている状態と考えていいのですが、その時わたしたちは心の目を開けているわけで、たとえ瞼が閉じていても目は開いていて、肉体の内側から目の網膜を見ているのです。
外界とは瞼によって閉ざされているから、外界の光景は網膜に映されていませんが、代わりに、内側の光景が映されていて、それを見ているのです。
夢を観ているとは、まさに瞼が閉じているのに、内側の景色を見ていることに外ならないのです。
夢(正夢)を観ているRem睡眠状態が潜在意識レベルにある所以です。
まさに瞼は閉じているのに、ありありと映像が見えているのは、心の目が開いているからで、映像が動くのを追いかけているから瞼がピクピクとせわしなく動いているのです。
それでは、普段目を醒ましているわたしたちが瞼を閉じても映像が見えないのは何故でしょうか。
夢を観ている時は、ありありと見えている映像が、ただ薄い白色の濁った光のようなものがぼやっと光っているだけですが、何故でしょうか。
薄い白色の濁った光のようなものが、実は映写されていない網膜というスクリーンなのです。
映画館に行くと、白いスクリーンが見えます。
映写機がまわり出すと、白いスクリーンが消えて映像が見えます。
わたしたちが普段目を醒ましている時、目を閉じても白いスクリーンしか見えないのは、映写機がまわっていないからです。
つまり心の目が開いていないのです。
潜在意識レベルのRem睡眠下では、瞼を閉じても、心の目は開いているから映像が見えているのに、顕在意識レベルの目が醒めた状態では、瞼を閉じても白いスクリーンしか見えないのは心の目が開いていないからに外なりません。
つまり、意識が無いのと同じであるわけで、顕在意識レベルとは、まさに意識がある筈なのに意識が無いに等しい状態であるわけです。
「わたしたちは眠ってもいないのに四六時中眠っている」と冒頭で申しました所以です。
潜在意識レベルつまり意識がある状態で、わたしたちは夢(正夢)を観ているのですから、顕在意識レベルではもっとはっきりとした夢を観ている筈なのに、わたしたちは夢の映像を見ることができない。
それはまさしく瞼は開いていても心の目が開いていないからに外ならない。
心の目が開いているなら、瞼を開けている時は外界の景色が見え、瞼を閉じたら夢の映像に切り代えられる筈です。
本来のわたしたちが目を醒ましているということは、肉体の目のみならず心の目も開けていることを言っているのですが、残念ながら心の目は開いていないのです。
顕在意識レベルとは、意識がある状態なのですから、心の目も開いているべきですが、開いていない。
どうやら、意識があることと心の目が開いていることとは同じことではないようです。
潜在意識レベルでははっきりと心の目が開いているのに、顕在意識レベルでは心の目が開いていない理由は、意識があるという定義そのものに間違いがあるからではないでしょうか。
実は、意識があるということは地球意識や宇宙意識という集合意識と繋がっている、所謂わたしたちが無意識と言っていることであり、本来の無意識ということは、集合意識と掛け離れ、自己同化(Self−Identify)した顕在意識と定義すれば、顕在意識レベルでは心の目が開いていないことと符号するわけです。
またわたしたちが言う、所謂無意識レベルで負夢を観ている熟睡状態が、実は集合意識と繋がっている本来の顕在意識であると言えるのです。
実在の世界とは、わたしたちが言う、所謂現実の世界ではなく、夢を観ている世界のことを言うのであって、肉体の目が醒めている時にも、瞼を閉じれば即座に夢の映像が見える世界にわたしたちがいるのです。
夢を観ている世界は夢の世界ではありません。
夢を客観的に見ている、「わたし」の座っている4階が夢を観ている世界です。
覚醒した状態とは、4階の自分独りだけの座席に座っている、「わたし」を認識できる状態を言うのです。