Chapter 168 睡眠は是か否か

睡眠をよく採ることは好いことだと、わたしたちは思ってきました。
一方、精神が眠っているという表現を使うこともするわたしたち。
悟り、覚醒という言葉は精神が覚めている、つまり眠っていないことを意味している。
そうすると肉体は睡眠をよく採る方が好いが、精神は眠っていない方が好いというわけでしょうか。
しかし、健全な精神に健全な肉体が宿るとも言います。
結局の処、わたしたちは睡眠について何もわかっていないのです。
肉体あっての精神だと思っているわたしたちですが、そういう自分を決して唯物論者とは思っておりません。
必ずやって来る死というものをよくよく考えれば、肉体あっての精神であることは誰でもわかっている筈です。
必ずやって来る死というものに対する恐怖が、死とは肉体の消滅であることをわかっていながら、精神世界にその逃げ場所をつくったのでしょう。
肉体が消滅すれば、心や想いも消える。
プチッと電灯が消えて真っ暗になるように、わたしたちの心や想いも消えてしまうのが死なのに、宇宙の果ての無限の世界を知らないように、死後の世界を知らない故の恐怖なのです。
「神の自叙伝」で、わたしたちの宇宙を全体宇宙と呼び、全体宇宙の向こう側、つまり果てのない無限の宇宙を絶対宇宙と呼びました。
そして「神はすぐ傍」という作品では、わたしたちが生きている全体宇宙は「運動と光と喧騒」の世界であるから、その向こう側にある絶対宇宙は「静止と暗闇と沈黙」の世界であると申しました。
仏教では、わたしたちが生きている現実の世界を此岸と言うのに対して、死後のあの世のことを彼岸と言います。
わたしは、此岸が全体宇宙つまり「運動と光と喧騒」の世界であり、彼岸が絶対宇宙つまり「静止と暗闇と沈黙」の世界だと捉えています。
「無常」とはまさしく運動の世界であることを示唆しているのです。
肉体が消滅すれば、心や想いも消え、プチッと電灯が消えて真っ暗になるように、わたしたちの心や想いも消えてしまうのが死であることは、「運動と光と喧騒」の世界から「静止と暗闇と沈黙」の世界に移ってしまうことです。
心や想いというものも、「運動と光と喧騒」の世界に生きているが故のものであって、「静止と暗闇と沈黙」の世界では、そんなものは在り得ないのです。
それが生と死の境界を成す要因であると思うのです。
死ねば何もかもなくなる。
これは至極当然のことで、決して唯物的考えではないと思います。
そして、眠るということは死と繋がっている唯一の一瞥であるのです。
死を理解するには、眠りを理解すれば可能であることを示唆していると言っても過言ではないでしょう。
そうしますと、肉体が滅びることが死であるのですから、睡眠をよく採ることは肉体にとって好いことだという考えは矛盾していることになります。
また、覚醒することは死を意味するのではなく、生を意味していることになります。
永遠の眠りに就くことを死と言うのは正しいと言えるでしょう。
まさしく、わたしたちは矛盾の世界に生きていると言っていい。分裂症になるのも当たり前です。
「あれも正しい、これも正しい。あれも間違い、これも間違い」と思いながら生きているのです。
睡眠についての考えを洗い直してみる必要があるように思います。